本当に「死」は自己決定できるのか? 訪問介護士@オーストラリア

今は尊厳死や安楽死について学びを深めています。
世界で安楽死が合法化される国が増えていますが、オーストラリアでも2017年にビクトリア州が初めて安楽死を合法化する「自発的臨死介助法」が成立し、2019年6月に施行されました。その後、西オーストラリア、タスマニア、南オーストラリア、クイーンズランド、ニューサウスウエルズでも可決されています。
オーストラリアは安楽死に対して比較的厳格なルールが維持されていますが、安楽死が認められている国の中には、「耐え難い苦痛」に経済的苦痛や精神的苦痛も認められているところもあり、どんどんルールの緩和やそれに至るまでの方法の簡略化が進んでいます。このままでは、「不治で末期」の人だけでなく、死にたいと思った人が死ねる状況が加速されてしまうのではと危惧しています。実際に、安楽死が認められれている国では、安楽死で死亡した人の割合は増えています。安楽死した人の臓器が臓器移植に使われることも始まっているそうで、極端なことを言えば、このままでは死にたい人はさっさと死んで、生きたいと思っている人に臓器をあげればいいじゃん、なんて風潮も出てきてしまうのではと妄想してしまうと恐怖すら覚えます。

そもそも、人は死を「自己決定」はできるものなのでしょうか。他の学びの中で感じていることは、「人間の幸せは、決して自分の中にだけあるものではなく、むしろ他人の中にあってこそ得ることができる」ということ。近年は、幸福を自分一人のものと考えている人が増えていますが、本来幸せは他者の中にあり、それが自分に反映しているとも言えます。人間が人との関係性の中で生きている生き物だからです。そして、「死」は周囲の人々全てにまたがる人間関係の中で起きること。人は死を権利として主張することも、個人の「もの」として所有することも処分することも本来できないのではないかと思います。また、「自己決定」するのは、その「瞬間」だけであって、人との関わりの中で揺らぎゆく性質がある気持ちを、「決定」することなどできるのでしょうか。実際に、一旦安楽死を決めた人が、直前に取り下げ、その後の余生で「幸せだ」と言っているケースだってあるのです。

安楽死は、「安楽死をしたい」という人の意志を尊重することが大前提ですが、そもそも、そう思う気持ちの裏にある気持ちに目を向けている人がどれくらいいるか、ということにも疑問を感じます。「安楽死したい」と言っているから、安楽死を認めるなら、例えば日本のように集団意識の高い国で安楽死が認められてしまったら、「(みんなが死ねって言ってるから)安楽死します」「(家族に迷惑をかけたくないから)安楽死します」という人が出てきてしまう可能性があります。それが本当に自己意志といえるのでしょうか。また、安楽死が法律で認められたことによって、安楽死を迫られ、生きづらさや精神的苦痛を感じる人が増える可能性もあります。

そもそも、日本人は欧米と文化的背景や意思決定あり方が根本的に異なると感じます。なので、海外で認められたから日本でも、と安易に考えるのは非常に危険だと、最近の安楽死の報道を見ても思います。

そして、海外の事例によると、安楽死の選択に社会的要因が関わっているケースも少なくなく、安楽死でその人が命を絶てば問題が解決するわけではなく、社会が課題を抱えていることがあるのです。そもそも、尊厳のある「死」ではく、尊厳のある「生」を保障する社会を目指すべきなのではないでしょうか。

「私、将来安楽死したいんだー」と軽々しく言っている人の話を聞いて、その人は本当に安楽死がどんなものか、安楽死が認められている国でどんなことが起こっているのか知っているのだろうか、その人の周りの人のことを真剣に考えた上での言葉なのだろうか、と様々なことを考え、「生」や「死」に対して私自身も真剣に向き合い、周りの人、社会、様々なことを自分事として考えていきたいと思ったのでした。

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