言葉の種から咲く花

文章を書く。

誰かの目にふれて、読んでもらう。

人によって届くポイントはさまざまなんやなぁと改めて感じるし、それはその人を映すなあと思う。

私は私で、こうゆうことを伝えたいなあというものがあって発するのだけど、

言葉の種(私の言葉)は同じでも、どんなふうに育てるか(読むか)によって、咲く花(感想)はひとつひとつ異なるってことか。
育てない、咲かない時もあるし、花にならないこともあるよなぁ。

やっぱり伝わってる感や届いてる感、言葉が通じている感があると素直にすごく嬉しくて、反対にそんな意味ではなかったけど、そうゆうふうにとらえられるのか(モヤモヤ)とか思うこともあるけど、

当たり前のことだね。自由だわね。

自分が読み手の時もまあ、そうだ。
勝手に読みたいように読んでるわ。

じゃあ、まあ、それでいいのか☺️

それしかできないか。
そうか。そうゆうものか。

書き手の時は伝えたいことを過不足なく、私が思ったままを伝えたい、伝えなきゃ!とどこか躍起になってしまったりするけど、それは書く間の話で、言葉が誰かに手渡された瞬間、読み手の自由で、好きに読んでって視点も少しだけでも持てるようになれたら、それはそれでいいのかと思えるし、それは逆にひろがっていく側面もあってちょっとおもしろくもあるし(そうも思えない時もあるのだろうけど…)、そうなるとなおさら、書く間はとにかく自分に誠実に書くということしかなくて、それが書くということなのかもしれなくて、それってつまり、人としての自分自身の在り方にもつながるってことかってなると、ひゃあ!とこわくもなるけど、こわいから止めるじゃなくて、それをそれぞれを相違もよくわかりませんも含めてなるほど、おもしろいねと受け入れられるような方向に向かっていくほうを私は選ぼう。

当たり前のこともひとつひとつ自分で実感してようやくわかる、この不器用さ。

そんな月曜日の朝

よく考えたら2019年初のnote。

読んでいただきどうもありがとうございます。
遅ればせながら、
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

#月曜の朝 #エッセイ #言葉について #文章 #読むということ #花 #note書き初め

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?