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共感するのは不適切ですか?

イプセンの「人形の家」を読み始めたタイミングで舞台の告知が目に入ったので、はじめに文庫で読み次に舞台で観ることにした。

本を読んだ時は、自分のこれまでの(現在と隣接した)経験と重なる部分があって終盤のノラには痛快さを覚える感じだった。鳥籠の外の世界を自分の目で見てみること、これまで当たり前のように受け入れてきたものを疑ってみること。(デカルトのいう方法的懐疑はこういうことなのか)
鳥籠から抜け出そうとしたノラに共感しただけに、女性解放とともに語られる戯曲ではあるのだが、もっと広い意味での“解放”として語られてもいいのにというのが率直な印象だ。

ところが舞台で目の前の役者を通して観てみるとなんか違う。あくまで当時のジェンダーの役割の違いや格差を前提にした物語なのだなと感じた。(あくまで個人的な印象だが)
一度は共感した戯曲ではあるけれども、安易に自分の経験や感情を貼り付けてあたかもわかった気になってしまうのはとても違和感があるなと感じた。

そもそも昔から共感という言葉はどちらかというと嫌いな言葉だったと思う。誰かに対して“心配“とか”かわいそう”とかいう言葉を使っている場面に遭遇すると、何か相手の可能性そのものを狭めているような感じがしてとても苦手だった。それはあくまで自分の感情の貼り付けでしかなくて、相手を本当に理解しているわけではないと思う。かわいそうと思っても当の本人はその人なりの幸福を感じているかもしれないし、そこに第三者が可哀想というレッテルを貼る筋合いはないのだ。

とはいえ相手を思いやる言葉を全く使わないのは人として如何なものかと思うし、一方的な感情の貼り付けとの線引きは結構難しい。共感という言葉自体もいくつかに区別されるのだと思う。
新入社員で入った当初、当時の(一回りも二回りも離れた)上司からお前の言いたいことはよく分かるよと言われた日、帰宅してから笑いが止まらなかったことを思い出した。

自分も相手に配慮するあまり、先走って“〜だよね?”と相手の感情を当てにいこうとしてしまう部分は否めない。4月から新人の面倒をみることになるのだが、とりあえず“わかるよ、最初はそうだよー“と言ってしまうのだろうな。
共感する問題、まだまだ分からない。

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