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幸せ。探さなくても、ふと。
繋いだ電話から聞こえる友の声と5月24日の夕陽の幸せセット。
3月頃から探していた幸せは、
探さずとも、ふとあるものだと散歩しながら気がついた。
沈んでいく夕陽に後押しされて帰路に就く。
「(はぁ~)」
「(ずっと喋っていたいな、おうちに帰りたくないな)」
でも、その「帰りたくない」は別に寂しいもんじゃない。
そんな心地の良い存在がいることは、寧ろ幸せだなと思えた。
人の分岐点にはよく立ち会っている気がする。
なんて自分のことを誰かの重要人物かのように言ってしまった。
が、もしかすると自分にとっての分岐点になったからこそ、そう思えたのかもしれない。
と振り返った。
そんな5月24日も分岐点だった。
就職活動中の友は一社から内定をもらい、今後の就職活動だったり働くことについてだったり、、、とにかく社会に出る第一歩を踏み出す勇気みたいなものを必要としていたみたいだった。
自分が思ってることを伝えただけのはずが、友にかけた言葉はそのまま自分にもかけてあげたい言葉ばかりで笑えた。
真剣な話に真剣な話が重なる。
友にとっての真剣は私にとっての真剣でもある。
友の右か左かの選択を私ができるはずもないけど、友が選んだ先の最初の数歩を一緒に歩いたり走ったりできるくらいの言葉はかけてあげたいなと思った。
いつも必要な時に、必要な言葉をその友が私にかけてくれるように。
「まじで○○と喋れてよかったわ」
長めのため息のような締めだったけれど、
間違いなくそれは次に大きく息を吸うためのため息のような、
そんな友にとって必要な締めの一言に思えた。
こんな真剣な話を、私は畳に寝っ転がりながらしてまった。
そう打ち明けた彼女も、こんな真剣な話を寝っ転がりながらしていた。
私たちらしくて、幸せだった。
昼は境い目も見当たらないまま、そのまま夕になった。
寝っ転がった畳に刺さるオレンジがやっと教えてくれた。
これから散歩に行くという友に便乗して、私も散歩に行きたくなった。
陸と橋とで三県くらい跨いだ先にあるところに住む友と各々散歩した。
真剣な話はもうほとんどなくて、どんどん沈んでゆく夕陽を前にどこまでもふざけていた。
この散歩をする前日、
必死に毎日進んでんのに、一生何にも追いつかなくて、時間だけが過ぎてく気がして焦って、「とりま深呼吸」で大事な何かを見落とさないように。
そんなことをふたりで言っていた。
間違いなく大事な何かに気がついたし、時間がやっと待ってくれた感じ。
あの時はほんとに、深呼吸するように話せた。
ふと、めっちゃ幸せで、幸せって探さなくても
「おっ!」て感じでちゃんとあるんだよな。
お相撲さんの顔面の余白もなんだか幸せやな~と可笑しな幸せ見つけたりもした。
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