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雨音

  今日は朝から小雨が降っていた。
 仕事終わり、保育園の奥から元気よく飛び出してきた息子を「おかえり」と撫でて「お外、まだ雨降ってるよ」と伝えると、息子の目が輝いた。
 「歩いて帰りたい!」
 普段の通園は自転車か電車だが、今日は絶好の雨のお散歩日和だ。私と息子は、保育園から家まで徒歩20分弱の道のりを楽しむことにした。

 息子は雨のなかを歩くのが好きだ。たくさんの昆虫が描かれたお気に入りの青い傘をさし、一部だけ透明になっている傘の小窓で弾ける雨粒を観察したり、ビニールの屋根やトタン屋根、車の上で跳ねるさまざまな雨音に耳を澄ませたりする。雨の日にだけ姿を見せるミミズやなめくじを見つけては大喜びで知らせてくる。慎重で控えめな性格の息子は、長靴を履いていても水たまりをジャブジャブと荒らすことはしない。歩いてでも越えられるような小さな水たまりの上を大げさにジャンプしたり、浅い水たまりにそっと優しく靴底を浸けたり。公園で突然靴も靴下も脱ぎ捨てて走り出す子を見て(あんな風に泥まみれになりながら大胆に遊んでも良いのに)とも思うけれど、彼には彼の楽しみ方と流儀があるのだ。慎重な性格ゆえにほとんど全ての行動において石橋を叩いて叩いて叩いて渡るし、遊び方も他の子に比べて控えめだ。
 でも、当然そんな息子にもどう頑張ったって何が危険か分からない、言葉もいまいち伝わらない赤ちゃんの時代があった。
 少し前を行くスキップで揺れる昆虫の傘を見て、ああ、こんなにも大きくなったんだなと思った。体の大きさではない。手を繋いでいないとどこに行くか分からない、そもそも手を繋げない、もちろん端を歩くんだよと言われても守れない、車や自転車の前に無邪気に飛び出して行ってしまう、いつの間にかそんな風じゃなくなった。毎日の持ち物は、自分のカバンと息子のリュック、小さないのちへの責任感。それに片手を塞ぐ傘が1本増えただけでとてつもなく大きく感じられた雨の日の通園の負担が今はない。息子がまだ守るべき存在であることに変わりはないけれど、今はその小さないのちを守る役割を本人がちょっとだけ担ってくれている。

 まだよちよち歩きだった頃の息子と、それを冷や冷やしながら見守っていた頃の自分と重ねて、少し前に見た母と子のことを思い出した。
 母親は右手で荷物をたくさん乗せた電動自転車を片手で押しながら、左手で2歳くらいの子の手を繋いでいる。電動自転車はとても重いので片手で押し歩くだけも至難の技だが、さらに体を傾けて不安定な状態で行き先の読めない小さな子の手を繋ぐのだ。両立するはずがない。子どもが無邪気に車道に飛び出そうとした。「だめ!!」というお母さんの声と共にバランスを崩した自転車が大きな音を立てて倒れた。母親は当然子どもの手をしっかりと握ったままで、倒れた自転車のかごからは小さな黄色いリュックやエコバッグが放り出される。子どもは車道に出ることなく、母親に軽く腕を引かれる形になりポテンとその場でしりもちをついた。母親の声に驚いたのか、自転車の倒れる音に驚いたのか、はたまた行きたい方に行かせてもらえなかった不満からか、母親に抱きあげられた子どもは泣きだしてしまった。一部始終を見ていた信号待ちの中年女性が自転車を起こすのを手伝うと、「自転車に乗せたらどう?」と母親に言う。母親は「乗ってくれないんです!」と怒りと悲しみを含んだ切実な声で返した。

 わかる。自転車に無理やり乗せれば泣き暴れてしばらくぎゃあぎゃあと金切り声を聞きながら周囲の注目を浴びて移動しなければならないことも、だからといって安全が一番大事なんだから自転車に乗せるしかないじゃないのという正論もわかる。「乗ってくれないんです」と言い返した母親が自宅で落ち着いたときに(やっぱり泣き叫ばれるとしても乗せなければいけなかった。子どもの命が一番大事だなんて分かりきったことなのに)と思い返して自分の判断の誤りを責めることも、「乗ってくれないんです」と口にするととても稚拙に聞こえる言い訳をしてしまった恥ずかしさにいたたまれない気持ちになることもわかる。結果がこうなることなんて容易に想像出来たのに、安全を優先出来なかった。もう泣き声を聞きたくない、これ以上聞けない、ちょっとくらいどうにかなってもいいから、いやどうにかなったらダメなんだけれど、どうにかして泣き声を聞きたくない。無理やり子どもを自転車に乗せない選択をした結果、結局自分の首を絞めてしまうのも分かっていたことなのに。
 「乗ってくれないんです」。全然それだけじゃないのに、声に出した瞬間にこんなにもちっぽけになってしまう。

 頭の中でぐるぐると思考を巡らせていると、息子が笑顔で振り返って「ねえママ、楽器みたいだよ」と言う。軒下に置かれたバケツを雫が規則的に打っている。こんなにも大きくなった。先の見えない赤ちゃんの子育て。世界中で自分だけがひとりぼっちのように感じて泣いたことも、胸がいっぱいになるほどの愛おしさで涙が溢れたこともあった。それも言葉にしてしまえばありきたりで小ぢんまりとしたものに成り代わってしまうんだろう。ほんとうに色々あって、それでこんなにも大きくなった。

 私たちは永遠のように感じられるその時期特有のしんどさが実は今だけのしんどさであることを知っているし、しんどいことだけじゃなくて唯一無二の宝物と過ごす愛おしい時間であることもちゃんと分かっている。今のしんどさを乗り越えた後にまた新しい形で悩みや負担が出てくることもなんとなく知っているし、そこにも愛があることをちゃんと分かっている。小さな子を育てているときの感情はずっとマーブル模様ではっきりしない形をしているし、そこに自分でも理不尽だと分かるような行動が伴ってしまうこともある。わかる。わかるよ。何の足しにもならないかもしれないけれど、私にはわかるよ。
 色んな雨の音を聞きながら家に帰って、息子と昨日の肉じゃがを食べた。


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