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chamland
妊婦を見るたび 可哀想に、と思っていた。
妊婦を見るたび 可哀想に、と思っていた。
これから起こる不幸も知らずに。
ただ幸せを思い描き、頬を緩ませてベビー用品を眺めたりしているのだろう。
息をするのも苦しい妊娠期間を経た先にあるのは、終わりの見えない細切れ睡眠。不自由。仕事か女遊びか疑わしい夫の帰りを、泣きわめく赤ちゃんをあやしながら待つだけの生活。
夫と結婚することも産むことも選んだのは自分自身で、愚痴どころか自由に遊びまわる同級生たちを羨むことさえ許されない気がしていた。
帰宅した夫が口を開くのは夕飯を批評するときだけだった。
世界中で自分だけがひとりぼっちだった。
通りすがりの妊婦は過去の私ではないのに、可哀想に、と思った。
5年経ち、かき氷の屋台に並ぶ夫と息子の後ろ姿を眺める。
夫の手首には息子にせがまれてとった金魚すくいの袋が3つもかかっていて、こちらを振り返り「何味にする?練乳もかけられるよ」と言う。
かき氷だって別にいらない。本当はいらないのに、練乳までかけてもらう。
私はときたま、そんなふうにちょっとずつ過去の悲しみを食べる。夫が私のために買ってくれる食べ物で、前の自分を慰める。
私はブルーハワイ味のかき氷を食べる息子の隣で、同じようにいちご味のかき氷を食べた。
夏祭りの帰りにすれ違った妊婦さんを、可哀想だとは思わない。
今の私には幸せも見える。
可哀想だとは思わず、ただ幸せを願う。
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