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文化人類学と在日コリアン


大好きなコテンラジオの番外編で某日、とても面白い方との対談を聴いた。
それが室越龍之介さんとの出会いだった。
その方の声や話しぶり、ユニークさとにじみ出る教養、大らかな視点、、、対談の面白さは勿論のこと、何故か懐かしく、幼い頃、日本で暮らしていた頃に出入りが多くあった父の友人達や叔父達との賑やかな会話の匂いが立ち込めるようで、恋しくて堪らない気持ちになった。

明るい在日コリアン

私は在日コリアン3世である。
幼少から28歳くらいまで世の中にDead Endがあるとは夢にも思わなかった、頭のネジがかなり緩んだ、ただただ世間知らずのフワフワしている人間だった。当の本人は物事を深く考えていると思っているというオマケ付きの、今でいうかなり「痛い」タイプの人間だ。

誇り高く、若さならではの理想も高かった両親の愛情をた~っぷりと受けたお陰で、私にとっても在日コリアンであることは誇り以外のナニモノでもなかった。

日本に生きる在日コリアンのほとんどはいわゆる通名を使っていたであろう時代に私は本名で学校に行き、2つ名前があることが自慢でさえあった。

日本のほとんどの土地がそうであるように私が生まれ育ったところも日本人しか住んでいないところである。地元の小中学校の先生が私の名前にどれほどビビられたか、察するに余りある。

しかし私が明るく堂々としたオープンな在日であったこともあり、数々の場面で発言や意見を求められたり、勉強熱心な先生方とディスカッションしたりする機会も多く頂いた。

私が生まれた時、父は大学院生だった。大学卒業後、入社した会社で「ここではいくら頑張っても社長になれまい。ならばもっと勉強しよう。」と大学に戻った。

勉強熱心だった父はある時、教授から打診された。「大学に残ってはどうか?」
学者を出した韓国の古い家系にありがちな価値観に則ってか、父にとって学者になることは夢でもあっただろう。

「条件はひとつ。国籍を日本籍にすることだ。」
国立大学だったので大学に残る=日本国籍保有者という時代だったのだ。

「それはあり得ません」 父は大学院を修了し、専門分野の会社を立ち上げ、以来ずっとその仕事で私達4人(&母)を何不自由なく能天気なほどのびのびと育ててくれた。

同じようで違うこと

本名や通名に関わらず、見かけは日本人と変わらない私だ。なにより3世なので言葉も生まれた時から日本語が母国語だ(私の両親も日本生まれだ)。見かけは日本人でも在日コリアン。しかも誇りつき。
学校で机を並べている友人達、バスケットボールクラブで汗と涙を流して思いっきり青春しているかけがえのない仲間たち、学校ですれ違うたびにときめく彼は日本人だ。

だが見かけは一緒でも、日本人から見た社会と私から見た社会はかなり違う。家の中の習慣や食べ物もちょっと違う。

それは南北に長い日本列島の各地の言葉や文化の違いを更に大きくしたようと言えなくもないが、時々私が在日であることを忘れた知人からのうっかり発言やちょっとしたことで「見えているものが違う」ことを認識するのは常だった。

そのため人は立場や境遇により見えるもの(認識)が違うのは、至極あたりまえのことだった。

あなたの常識が私の常識とは限らず、私にとっての真実はあなたにとって真逆ということもあり得るのだ。

嬉しかった言葉 ~違いを認める~

印象的なことがひとつある。
小中学校の友人で部活に燃えてた仲間の一人がある日、私に言った。
「私、間違ってた。私はスニは自分と一緒だって思ってたしそう思いたかった。それが良いことだと思っていた。でも違う。私は貴女が自分とは違うということを受け入れるのが怖かったんだ。違う背景を持ち、違う考え方を持つ、でもそんな貴女が好き、そんな考え方が大好き、それでいいんだって思った。違うことは悪いことじゃないって分かった。」

いつもバカばっかりして大笑いし合う彼女の、真面目で誠実な言葉にとても感動した。

「ほとんど日本人みたいなもんよね」と言われるたびに感じる小さな違和感を飲み込む私に、直球で飛び込んできた彼女の素敵な言葉はキラキラと私の胸に広がった。

それは彼女が文化人類学的思考を自分で手に入れた瞬間だったと思う。

文化人類学を学ぶコテンセミネールとは

大学で文化人類学は確か必須項目だった(うろ覚え)。不真面目でちゃんと勉強しなかったことが心残りだった。

だから多くの楽しみと学びを与えてくれるコテンラジオ番外編に彗星の如く現れた室越さんの文化人類学のコテンセミネールに参加するのは当たり前の流れだったようだ。

室越龍之介さん主宰のセミネールは2,3週間に1度、課題本を読んだ上で参加し、室越さん始め参加者と共にサマリーを行い質問や意見交換を行う。

1冊目は「文化人類学の思考法」で文化人類学の思考法にアプローチし、2冊目「チョンキンマンションのボスは知っている」で文化人類学者がフィールドワークをおこなったイキイキした社会を考察する。3冊目は「はじめての構造主義」で近代から現代思想への移り変わりと構造主義とは何かについて知る。そして次は「寝ながら学べる構造主義」だ。

思想の移り変わりを学ぶことは単純に面白い。
またこの構造主義に関しては学術的理解のみならず、実際のところ構造主義でモノを捉えるとはどういうことなのか?という点が一番知りたいところで徐々に理解しつつあるところだ。

私にとっては難解な本が多いが、室越さんの柔らかく大らかな受け止め力に安心して参加してしまう。バカな質問もできちゃう、これって凄いことだと思う。そしてそれは勿論参加者の方々の懐の深さにもよっている。だって愛すべきコテンリスナーだもん~。素敵な人が多いんだョ!


在日コリアンとして生きるということは「日本社会の中の、更に別の社会に生きる」ということでもある。重なっている部分もあれば剥離している部分もあり、2つの視点を持っているということでもある。

なんならパスポートに「在日コリアン」というものが欲しいとすら思っている。それくらい日本にも韓国にも近くて、日本からも韓国からも遠い。そして100年もすればいなくなる存在だろう。

ちなみに私はオランダに住んで17年目だが、法的には在日コリアンとしてオランダに住んでいる。
ここでオランダ人の血が入った子供達を産み育てる中で、文化人類学はやはり学ぶに値すると思っている。今後も室越さんのもとで学びながら自分の考え方の視野を広げていきたい。

ちなみに室越さんのポッドキャスト「牛を忘れる」は室越さんの可愛らしさと知性を楽しめるし、これまた魅力的な鷹鳥屋明さんとのポッドキャスト「百年のカボス」は文化、歴史、食べ物、宗教・・・と多岐にわたるお二人の対話がシャープで機知に富んでてお薦めです♪


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