セックスとジェンダー【二度ジェン】

はじめに

こんにちは。二度と調べないためのジェンダー論、略して「二度ジェン」をやってみます。

私はジェンダー論の中でもセクシュアルマイノリティの問題に関心があって、卒業論文で性の多様性について理論編を書いたことがあります。なにぶん広範囲ですからあっちこっちの本や資料をあたるのが大変な作業で、これはもう二度とやりたくないし後輩にも同じ大変な苦労をさせたくない。そういう思いもあり、論文をひっくり返して、ネット向けに手直ししながら公開してみようという企画です。

構成としては、まず私の理論編の見出しを書き、それを批判的に検討して考察を深めていく流れです。
らくーに読んでほしいので、何章何節みたいなのは無しで。ネットですし。
まあやってみましょう。

セックスとジェンダー

セックス(Sex)は生物学的性差を指す言葉です。一方、ジェンダー(Gender)は社会的・文化的性差を指す言葉として用いられています。

「ジェンダー」はどのように生まれたのでしょうか。
かつては、セックスは人間が「男」や「女」という生き物として生まれることを宿命づける根拠として考えられていました。しかし、1970年代の第二波フェミニズムの中で、社会的・文化的性差を生物学的・解剖学的な性差としてのセックスと区別するために、「ジェンダー」という概念が用いられるようになりました。元々は言語学用語だったジェンダーという言葉が1970年代の第二波フェミニズムの中で用いられ始めた(Tuttle 1998: 140)以前では、シモーヌ・ド・ボーヴォワールが「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」(Beauvoir 1949: 12)と述べています。

ところで、第一波フェミニズムと第二波フェミニズムの違いはなんでしょうか。
第一波フェミニズムとは、1789年のフランス革命後や19世紀のアメリカ、大正時代の日本など、世界各地で社会の近代化とともに起こった女性による一連の権利獲得運動を指します。これに対して、第二波フェミニズムでは近代化された後の社会における女性の立場を問題としていて、ジェンダーはその主軸概念に位置づけられたのです。

ただし、1990年代以降は、セックスもまた社会的に構築されたものであるという主張がなされるようになっています。つまり、セックスとジェンダーの区別は慎重になされるべきだと考えられるようになってきたのです。これは、セックスを否定する見解ではなく、セックスが生物学的・解剖学的な側面とジェンダーとしての側面を持ち合わせていることを確認する必要があるということを意味しています。

セックスの自然な事実のように見えているものは、(中略)さまざまな科学的言説によって言説上、作り上げられたものにすぎないのではないか。セックスの不変性に疑問を投げかけるとすれば、おそらく、「セックス」と呼ばれるこの構築物こそ、ジェンダーと同様に、社会的に構築されたものである。実際おそらくセックスは、つねにすでにジェンダーなのだ。そしてその結果として、セックスとジェンダーの区別は、結局、区別などではないということになる。

(Butler 1990: 28-29)

したがって、セックスとジェンダーは完全に独立したものではなく、相互に関連し合っていると理解することが重要です。

批判的検討

批判1: 生物学的性差の否定につながるのでは?

セックスとジェンダーを区別することは、生物学的性差の存在を否定するのではなく、社会的・文化的に構築された性差の存在を指摘するものです。生物学的性差とジェンダーによる差異は、ともに存在し得るものとして理解されるべきでしょう。

批判2: セックスとジェンダーの区別は、セクシュアルマイノリティの存在を無視することにつながるのでは?

セックスとジェンダーを区別することは、セクシュアルマイノリティの存在を無視することにはつながりません。むしろ、セックスとジェンダーを区別することで、セックスとジェンダーが一致しないトランスジェンダーや、同性愛者、両性愛者などのセクシュアルマイノリティの存在を認識し、その権利を尊重することにつながります。セックスとジェンダーの区別は、性の多様性を認めるための重要な視点なのです。

批判3: ジェンダーの基盤にはセックスの差異があるのでは?

確かに、ジェンダーの構築にはセックスの差異が影響を与えている面もあります。しかし、ジェンダーはセックスによって完全に規定されるものではなく、社会や文化によって多様に構築され得るものです。したがって、ジェンダーをセックスに還元することは適切ではありません。

強制的で自然化された異性愛制度は、男という項を女という項から差異化し、かつ、その差異化が異性愛の欲望の実践をとおして達成されるような二元的なジェンダーを必要とし、またそのようなものとしてジェンダーを規定していく。

(Butler 1990: 55)

バトラーの指摘は、セックスの差異がジェンダーの構築に影響を与えていることを認めつつも、ジェンダーがセックスによって一義的に決定されるわけではないことを示唆しています。むしろ、異性愛規範という社会的な制度がジェンダーを二元的なものとして規定しているのです。このように、ジェンダーの構築には社会的な要因が大きく関わっているのであり、ジェンダーをセックスに還元することは適切ではありません。

批判4: セックスとジェンダーの区別はトランスジェンダーの排除を招くのでは?

セックスとジェンダーの区別それ自体は、トランスジェンダーの排除を必然的に招くものではありません。むしろ、セックスとジェンダーを区別することで、セックスとジェンダーが一致しないトランスジェンダーの存在を認識し、その権利を尊重することにつながります。ただし、セックスとジェンダーの区別が、トランスジェンダーの排除に悪用されるおそれもあります。この点については、慎重な議論が必要でしょう。トランスジェンダーの権利をめぐる問題については、別の機会に詳しく論じたいと思います。

批判5: フェミニズムの主張を弱めるのでは?

セックスとジェンダーの区別は、フェミニズムの主張を弱めるどころか、むしろ強化するものです。ジェンダーが社会的・文化的に構築されたものであることを認識することは、性差別の解消に向けた取り組みにおいて重要な視点となります。セックスとジェンダーの区別は、フェミニズムの主張を深化させるものと言えるでしょう。

明確に区分された二つのセックスのカテゴリーを、セクシュアリティの言説のすべての基盤や原因とみなして、セックスにまつわる経験を規制していくことこそ、既存のセクシュアリティの体制がおこなっている産出作業なのである。

(Butler 1990: 56)

バトラーが指摘するように、セックスとジェンダーの区別を問うことは、セクシュアリティを規制する社会的な体制を明らかにすることにつながります。この観点からすれば、セックスとジェンダーの区別は、フェミニズムの主張を弱めるどころか、むしろ強化するものと言えるでしょう。セックスとジェンダーの区別を通じてジェンダーの自明性を疑う糸口が得られます。

おわりに

ここまで、セックスとジェンダーの関係性を明らかにし、その区別の意義を明確にしました。
次回は、セックスではなく「セクシュアリティ」という概念を登場させて、それがジェンダーとどのように関わっているのかを見ていきたいと思います。
私のやる気が続けばいいのですが。

参考文献

Beauvoir, Simone. 1949. Le Deuxième Sexe II L'expérience vécue. Paris: Gallimard.(『第二の性』を原文で読み直す会訳,2001,『決定版 第二の性――II 体験 上巻』新潮社.)

Butler, P. Judith. 1990. Gender Trouble, Feminism and the Subversion of Identity. UK: Routledge.(竹村和子訳,1999,『ジェンダー・トラブル――フェミニズムとアイデンティティの撹乱』青土社.)

加藤秀一. 1998. 『性現象論』勁草書房.

Tuttle, Lisa. 1986. Encyclopedia of Feminism. UK: Longman Group Ltd..(渡辺和子監訳,1998,『新版フェミニズム事典』明石書店.)

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