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緩和ケア病棟に移った祖父

祖父が今日から緩和ケア病棟に移ることになった。


はじめまして。
僕は今20歳の大学3年生です。祖父は今年の1月で71歳になりました。

祖父の病気が発覚したのがほぼ一年前。
確か最初は心筋梗塞だったかな。
165センチくらいで90キロくらいの太ってる体型の祖父だから太りすぎとは周りから言われてた祖父だけど、いいんだよと言って笑ってごまかす祖父が大好きだった。(祖父って言い方にはなれないので、ここからはいつもの呼び方でじいと呼びます)
心筋梗塞は早めの発見だったから全然たいしたことはなかった。
入院することはあったけど、どうせ検査だと自分も重く考えていなかったし、何よりお見舞いに行くと病院のご飯をおいしそうに食べるいつものじいに安心していた。
そんなじいがずっと続くものだと思っていた。

そこからは周りも何が起きているのか追いつかないくらいこの一年は壮絶だった。
心筋梗塞がまだ治りかけないうちにまた別の病気が見つかった。(ここからは多すぎて自分も詳しくはわかっていないため、詳しいことは言えません。)
毎週のように病院に通うようになったじいにまだその頃はそこまで心配はしていなかった。
じいは痩せちゃったよと嘆くように言うけど、標準体重くらいになってよかったじゃんと笑い合っていた。

僕は当時大学に電車通学をしていた。
確か10月くらいのある日大学から帰る電車の中でじいからの着信があった。
電車降りてからと思いその時は無視した。
電車から降りてじいにかけ直すと電話の向こう側ではいつもとは違うじいの声があった。
電話あったけど、どうした?と聞くと、病院で一番最悪なことを言われちゃったよ。と返答があった。
結果は癌だった。
じいの親や兄弟の多くは癌で亡くなっており、じいも同じことを宣告されて精神的なダメージが大きかったんだと思う。
そのことを知っていた僕は、大丈夫だよ。と言うしかできなかった。それしか言えなかった。無責任だった。それ以外の言葉がかけられるほど僕の脳みそは使えるものじゃなかった。

後日詳しい話を聞きにじいと僕と僕の叔母の3人で大きい大学病院に行った。
(叔母は今後もよく出てくる存在で自分の母のこととか家族のことも含めていつか書けたらいいな。)
病院に着くまでの車内、じいの感じから自分は正直、余命宣告まで覚悟していた。

病院につき、話を聞くと今現在の癌の進行状況を話された。
じいの癌は鼻の裏側に大きく広がっていて、見つかった段階でもうかなり大きくなってしまっているものだと言われた。
知らないうちにじいの体の中で悪魔が育っていた。
ステージ4だと言われた。
僕はステージがいくつまであるか知らず、余命宣告もされなかったことにどこか安心していた。
しかし、すでに癌が大きくなっていて、普通の抗癌剤治療では治すことはできないと言われた。

11月になると叔母とじいはネットで調べた特別な治療ができる癌センターをまわった。
結果はどこの癌センターもできないと言われた。
このまま何もしないよりはということで最初の病院で抗癌剤の治療をすることになった。
2週間に一回の通院治療だった。

11月の途中から通院の治療が始まりその頃はじいが運転して治療に通っていた。
ただ、その頃から癌とは違う他の病気の兼ね合いもありどんどん複雑になっていった。
鼻の奥の癌のせいか視界に不安を抱えるようになりじいは運転をやめた。
本人が辞めたと言うよりは周りが辞めさせたと言う方が近いかな。
この前まで治ったらまた運転するんだって言ってたな。笑

年が明け2020年になるとまたじいの入院が始まった。年明けすぐに始まった入院は検査と治療を兼ねてかなり長いものだった。途中から早く出たいと常に言うようになり、週末には外泊許可を得て外泊させたりもしたが、次第に数値が悪いことやコロナウイルスが流行り出したことでそれもできなくなった。
本人の希望と何とか数値が持ち堪えたことにより半ば強引ではあったが3月途中に退院することができた。約2ヶ月の入院が終わり本人は喜んでいるようだった。
あのまま病院から出られないかと思った。みんなのおかげでまた出ることができたからもう悔いはないよ。ってじいが
僕は何言ってんだよって軽くあしらうしかできなかった。

退院できたのも束の間、また2週に一回の通院治療が始まった。その頃からは叔母が付き添って通院することになっていた。
治療しても癌がなくなることはなく、じいはどんどん弱っていった。
自分もあれ、ほんとにやばいのかなってやっとその頃から真剣に考えるようになった。

5月14日
平日で大学の授業はあったけど、じいの病院に自分が付き添っていくことになった。
その頃にはすでにご飯もまともに食べることはできなくなっていた。
朝じいを迎えに行って病院に着く。
今までは歩いて検査も受けていたけどその日は車椅子に乗せて病院を回ることにした。
朝一発目の検査で病室に入るとじいはぼくの横で嘔吐してしまった。
悲しくなった。
目の前でじいの弱った姿を見るのが辛かった。
そのこともありその日から緊急入院することになった。

5月25日
じいの退院が決まった。コロナの影響で迎えには行けるが、病室まで入ることはできず食堂で待たされていた。
病室の方からは看護師さんに支えられながらじいが杖をついて歩いてきた。
じいだけどじいじゃなく感じた。
腕も足も完全に細く骨張っていた。
つい1年前は太ってて大食いで。
そんなじいではなくなっていた。
話すと声もかすれてきて力のない声になっていた。

6月19日
この日もじいの通院にぼくが付き添うことになった。
前と違うのはこの日はぼくの3つ上の姉も一緒に行った。(姉はここまで文章には登場はしなかったがお見舞いにもよく行っていたし、通院の付き添いもしてくれていた。)
じいに朝会ったがもうまともに会話する元気はなくなっていた。
1日をかけて検査と治療をするはずだった。
それが終わればまた帰るはずだった。
でもご飯を食べれていなくて、食べてもすぐ戻してしまう元気のないじいを見て医者はまた入院を進めてきた。
病院が面会禁止になっていることを知っていたのでナースステーションの近く、そこまでしか行ってはいけない場所までじいを見送った。
車椅子に乗って看護師さんに押されていくじいの背中をただ見送った。
どのくらいで退院できるんですか?って主治医の人に聞くと栄養の投与と多少のリハビリで1.2週間で退院させたいと思っていると言っていた。

7月5日
じいの退院予定の1.2週間はとうにすぎていた。この日は叔母と姉と父親とぼくの4人で食事をした。
(初めての登場ですが、もちろん父親もじいを支えてくれる家族の一人です。自分の母親もじいの心配をしていますが、母親自身の病気もあり直接会うことはできていません。このことはまた別の機会に書きたいです。)
じいの現状をを聞き出すのには勇気が必要だった。
ぼく以外の3人はすでに知っているようだった。
じいもう数ヶ月もないらしい。
じいは明日から緩和ケア病棟に移ることになった。
叔母が言った。
緩和ケアに移るっていうことはもう癌の治療はほぼできないということだと言われた。
次第に意味がわかり始めた。
病院としてはじいができるだけ苦しまず痛みがなく、楽にって。
みんな説明する中で死っていう言葉を避けて遠回り遠回りに話しているのが心地悪かった。
信じたくなかった。
何より数ヶ月ないっていうのは最もわかりやすい深刻さの表現だった。
涙が止まらなくなった。
いろんなじいの思い出がこみ上げてきた。

小中学生の時は毎週のように野球の練習試合を見にきてくれたこと。
高校生になると2人でご飯を食べに行く友達のような存在だったこと。
じいと叔母と姉とぼくの四人で伊勢旅行に行ったこと。
高尾山に登ったこと。
高校生の途中から母親が病気で作れなくなったお弁当を毎朝作って届けてくれるようになったこと。
雨の日だと学校まで送っていってくれたこと。
いつも行列のラーメン屋さんにいったら定休日で笑ったこと。
洋服を買ってくれたこと。
お小遣いをくれたこと。
二人でアウトレットにいったこと。
ファミレスでドリンクバー持ってきてってじいに頼まれたけど、ドリンクバーの近くに仲良くない同級生がいたから拒んでたら不機嫌そうに自分でコーヒー取りににいったこと。
録画の仕方を教えたこと。
キャッチボールをしたこと。
魚釣りをしたこと。
免許取ったらすぐ練習だって言ってじいが横に乗ってドライブしたこと。
僕が冗談を言ったら馬鹿いってんじゃねえよって笑ってたこと。
スーパーで箱のアイスをいっぱい買ったこと。
頭の中で出てくるじいは太っててポロシャツを着てて黒くてiQOSを吸ってて笑ってて。
じいって呼んでるけどほんとに友達だった。

7月6日今日
叔母と一緒に病院に向かった。
久しぶりにじいにあった。
ベッドで寝たまま病室移動する姿を見たのが今日のじいとの初対面だった。
緩和ケア病棟は他の病棟とは違い天井に飾りがあったり絵が飾られていたりいかにもな感じがして正直嫌だった。
天国に一番近い場所のような気がして受け入れ難かった。
部屋の整理をしているときにじいって声をかけた。
じいの正面に立つ勇気はなく背中側から声をかけた。
じいには見られたくないし見せちゃいけない顔になっている気がして。
僕の名前を呼び僕の存在を確認したじいは、あぁ来てたのかって言った。
涙が止まらなくなってすかさずトイレに行った。
絶対にこんな姿を見せてはいけない。
じいがどこまで理解して緩和ケア病棟に来たのかはわからないが悲しい気持ちにはさせたくない。
叔母と自分で荷物の整理の途中、じいが少し痛みがあると看護師さんにいい痛み止めの投与が始まった。
痛み止めが効きはじめるとじいも多少楽そうな感じだった。
整理が終わると叔母は医者と看護師さんとの話で面談室に呼ばれた。
結局1時間くらい戻ってこなかった。
正直俺も行くよって病室も出ていこうと思っていた。
じいと二人きりの空間に感情が耐えられる気がしなかった。
でもやっぱり残ることにした。
それでもまだじいの正面に座る勇気はなかった。
横向きに寝てるじいの背中側の椅子に座りじいに声をかけた。
冷蔵庫にあった飲み物をもらうよっていうのにも時間がかかった。
声の震えが怖かった。
痛み止めのおかげか苦しくなさそうなじいといろんなお話をした。
途切れ途切れでたまにぼけたことも言うけど久しぶりにじいとまともに会話をした。
今またコロナが増えてきたんだよとか、昨日都知事選だったんだよとか、九州は今雨で大変なんだよとか、地元のこととか、バイトのこととか、実はじいがパチンコで稼いだお金が俺にくれてたお小遣いだったこととか。
じいは笑っていた。
昨日の話が信じられなかった。
やっぱりじいだった。
僕の大好きなじいだった。
じいの方が心配なのに、話の途中に学生の僕を心配してお財布から1万円取っていけって何度も言われた。
断っても断っても言われた。
僕は嘘をついた。
そしたら安心したように最近お小遣いあげれてなかったからさって笑った。
じいの背中側で声を押し殺して泣いた。
いろんなところをつねったり、涙止める方法って調べたりしたけどなんの意味もなかった。
部屋にじいのお昼ご飯が運ばれてきた。
おかゆに細かく切られてるおかずにスープ。
それも3.4口食べてすぐもういらないって食べるのをやめてしまった。
もう食べないの?って聞くと喉を通らないんだよって。
無理やり食べさせて戻しちゃう姿を見たくないからそっか。って。
じゃあまたベッド倒すねって言って倒した。
お話ししたりテレビを見たりしているうちにじいは目をつぶった。
寝たのかなと思い今までの話とかを思い出して泣いた。
ばれないように、声が出ないように泣いた。
不意にじいがお前もご飯食べてきなさいって言った。
お腹空いてないから大丈夫だよって返した。
朝から何も食べていなかった。
また嘘をついた。

叔母が戻ってきた。
いろいろ説明を受けたんであろうパンパンの大きな茶封筒を持っていた。
13時すぎになっていた。
一回ご飯食べてくるねって病室を離れた。
病院の中のレストランで説明の内容を聞いた。
泣いた。
声が出るほど泣いた。
好きな食べ物で上位に入るかた焼きそばが不味かった。
メロンソーダも不味かった。
聞くと、医者の話だと緩和ケア病棟に入った患者さんは大体3週間程度だと。

食べ終わり、病室に顔を出してから帰ろうってなった。
その前にトイレに行った。
このままの顔でじいに会いたくなかったし、何よりじいの顔を見る前に感情の整理が必要だった。

ただいまって病室に入った。
声が震えてないか心配だった。
少し叔母とじいが会話してるのを、またじいの背中側の椅子で聞いた。
じいの手はかさかさでしわしわだった。
昨日の話を聞いてからずっとこれから会うたびにじいと写真を撮ろうって決めていた。
なかなか言い出せなかった。
じゃあそろそろ帰ろっかって叔母が荷物を持ったときにやっと言えた。
じいに写真撮るから目開けてってお願いした。
僕はベロを出してなんとかおちょけた顔をしたつもりだが目はパンパンに腫れ上がっていた。

病院からの帰り道、身の回りで思い返せばじいとの記憶があるところばかりだった。
なんなら今履いてるズボンも腕時計もスニーカーもじいが買ってくれたものだった。
じいって業務スーパー好きだったなとか、僕とじいでいきなりステーキにはまって何回も続けていったなとか同じラーメン屋に毎週のように並んだこととか。
じいってハマると同じところ行き続けるよねって叔母と話しながら笑った。
泣きながら笑って、笑いながら泣いた。

それから今の状況を話にじいの妹の家に行った。
芯を避けて遠回りに話すのがすごく気持ち悪かったけど、自分もじいのその時のことを考えたくはなかった。

奇跡が起きればって言葉を昨日から何回も聞いた。
希望が薄いのは自分もよくわかっている。
それでも奇跡が起きるのを願っている。
奇跡起れ。奇跡おこれ。キセキオコレ。
奇跡おきろって。

今日は人生で1番泣いた日。
これが更新されるのがもっとずっとずっとまだまだ先であって欲しい。

ここまで書いてる間も何回も泣いた。
自分の気持ちを整理するために書き始めたけどこんなにも長くなってしまった。
やっぱり僕はじいが大好きだ。
祖父と孫とゆうより、50個離れた大親友だ。

もしもここまで呼んでくれている人がいるとしたらありがとうございます。
作文も苦手でありきたりな文章をずらずらと綴ってしまいましたが、付き合っていただきありがとうございます。
もっとまとまりのある文章を書けるようになりたいなあ。
いつか家族のこととかなんとなく自分が日頃考えてることとか、あとは今日更新されて2番目になったけど人生で2番目に泣いた2020年2月1日のこととか。

最後までお付き合い頂きありがとうございました。
明日もじいのところに行こう。
授業は休んじゃうけど。
じいはそれを望むはずないかもしれないけど、俺がじいに会って話したい気持ちの方が勝つから。
明日も行って笑ってまた写真を撮ろう。
今度はぱっちりな目で。

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