昔の映画にしかない「静寂」と、それに挑んだ北野武
不思議なことがある。
昔の映画にしかない「静かさ」というものが、往々にしてある。
むろん現代の映画にも静かな作品はあるし、昔の映画にもにぎやかなミュージカル・コメディなどはある。
しかし現代のどんな静かな映画も持ちえない、何とも言えない独特の静かさが、昔の静かな映画にはある。
たとえば50年代フランスのアニメーション映画『やぶにらみの暴君』を一部改変した『王と鳥』や、時代も製作国も忘れたがモノクロでかなり古いことだけは確かな『美女と野獣』、あるいは黒澤の『蜘蛛巣城』などが、それである。
驚くべきは、榎本健一が1940年に主演した、通称『エノケンの孫悟空』。
アクションあり、笑いありのミュージカル・コメディでありながら、なぜか非常に静かで落ち着いた雰囲気がフィルム全体を支配している。
これはいったい……
と思っていたところ、あるとき友人の通称・人間シンクタンクが、真偽のほどは定かでないが、次のようなことを教えてくれた。
映画監督のアルフレッド・ヒッチコックが生前、
「われわれのように、サイレント、トーキー、そしてカラーと、すべての時代の映画づくりを経験した者にしか撮れない映画というものがあるんだ」
といった意味の言葉を残したというのだ。
さらに、人間シンクタンクの話は続く。
なんでも映画普及初期、それが芸術として人々から敬意をもって迎えられた背景には、
「映画は静かだ!」
という評価があったというのである。
今にして思えば、信じられないことだ。
現代のわれわれからすると、映画と言えばドンパチや音楽がにぎやかで、ともすれば騒々しいものですらある。
それが映画黎明期には、芝居や音楽と違って映画はバカ騒ぎをしない静かで上品なものとして受け入れられたというではないか。
何故そうなるかと言えば、むろん、当時はサイレント(無声映画)だったからである。
映画と言えば音がついていなくて当たり前のものだった。
人々はそのパタパタと動く写真に、動きながらもかえって何の音もしないという静寂の躍動をそっと力強く感じたのに違いない。
「富士の高嶺に雪は降りつつ」
の境地であろう。
しんしんと音もなく降りしきる雪の動的な静寂。
その静寂がかえって雪の躍動感を引き立て、躍動感がかえって静寂を際立たせる。
水墨の山水画にも似たそうした動的な静寂が、当時のサイレント映画にはあったのに違いない。
否、違いないどころか、なるほど現代のわれわれが往時のサイレント作品を観ると、そこにはまさにそういった美しさが息づいている。
このような作品を撮っていた映画人たちが、トーキー時代を迎えてなお静寂の芸術性を保ち続けたとしても不思議はない。
言われてみればたしかに、昔の映画になればなるほど、作り手はセリフの空白を恐れていない!
主人公の沈黙が、とても大胆に長く続く。
『王と鳥』の場合、主役というべき王と、悲恋の若い男女とには、すんどめの記憶が正しければセリフが一言もない。この3人に関してはサイレント映画である。
もう1人の主役というべき鳥にはセリフがあるが、決して多くない。要所要所で少ししゃべるだけである。
※
ここで注目に値する1本の映画がある。
『名もなく貧しく美しく』(1961年、東宝。松山善三監督、高峰秀子主演)である。
耳の不自由な夫婦の物語であり、多くの日本人が手話を知ったのはこの作品によってであったとも言われる。
たとえば、夫婦生活の困難に絶望した妻が逃げ出すのを夫が追うシーンでは、満員電車の互いに行き来できない隣りあった車両の窓越しに、夫が妻へ手話で呼びかける。
携帯電話もスマホもない時代。
ふたりは手話を知っていたから、ということはつまり、誤解を恐れず言えば、そもそも耳が不自由であったから、そのとき話し合えたのだ。
夫の説得に胸打たれた妻が、再び家へ帰ったのは言うまでもない。
さて。
この作品では、ふたりの会話のシーンにおいて、非常に粋な演出が施されている。
ふたりが手話で会話を始めると、すー……っと、いつの間にか音楽以外の音が消えているのである。
家の中のさまざまな生活音、戸外の雑踏やエンジンの音……
そういった、本来あちこちで鳴っているはずの音が、気づかれないうちに、雪のように消えているのである。
それによってわれわれ視聴者は、ある意味では、この夫婦と同じ環境にいざなわれる。
すなわち、耳から入ってくる情報に頼らず、役者の表情や身振り手振り、手話を訳した字幕など、眼から入ってくるものだけに集中して映画を鑑賞することになるのである。
サイレント映画の手法を一部に取り入れ、視聴者の耳を(BGM以外には)使わせず、眼だけで楽しませているわけだ。
こういう大胆で粋な演出は、やはり、サイレント時代に育った映画人でなければ怖くてできないかも知れない。
※
この『名もなく貧しく美しく』の表現を、さらに突き詰めようと恐らく挑んだのが、『あの夏、いちばん静かな海。』(1991年、東宝。北野武監督、真木蔵人主演)である。
間違いなく北野監督(以下、たけし)は、若い頃に『名もなく貧しく美しく』を観、例のサイレント的手法に感銘を受けたのに違いない。
『あの夏、いちばん静かな海。』では、やはり耳が不自由な(と思われる)カップルが主人公なのだが、なんと手話のシーンすらない。
ましてや、それに対する字幕も従って当然にない。
すべてごくごく基本的な、うなずいたり、涙を落としたり、指でどこかを指し示したりといった動作だけで、互いの感情や意思を伝え合い、また同時に、視聴者にもそれを伝えるのである。
徹底して、(いわゆる)言語的ではないコミュニケーションのみを用いる。
考えてみれば映画とはそもそも映像であり、人々の動きや風景の変化あるいは視点の移ろいなのであって、セリフや文字といった言語的コミュニケーションで表現できるようなことなら話芸や文学など他の表現方法に任せればよく、映画という枠組みの中でそんなものに頼る必要はみじんもない。
したがってサイレントでじゅうぶん映画は成立するのであるし、また、サイレント時代が過ぎ去ったのちも、松山善三やたけしのような挑戦は極めて必然的な、自然な挑戦とさえ言える。
恐らくたけしはそうしたことを当然に踏まえて、このような上品で美しい野心作に挑んだのではないだろうか。
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