「泣いてたまるか効果」~渥美清はどこにでもいる

60年代のテレビ・ドラマ『渥美清の泣いてたまるか』を観れば、実に面白い効果があなたの中に生じる。
それは、渥美清の他の主演作品のすべてが『泣いてたまるか』の一環に見えてくるという効果である。
ぜひこの不思議な効果を、体験してみるとよい。
『男はつらいよ』(いわゆる「寅さん」)シリーズはもちろん、『喜劇急行列車』から『拝啓天皇陛下様』、『あゝ声なき友』に至るまで、渥美が主演のものならことごとく、
「ああ、これは『泣いてたまるか』のスペシャル版ね」
などというふうに、強く思えてしまうのである。
もちろん実際は、そうではない。
が、ともすればそのように錯覚してしまいそうである。
これも広い意味での「シェーンの誤謬」かも知れない。
シェーンの誤謬とは、人の記憶の中で物語が変質し、しかも往々にして物語がより合理化されていく現象のことであり、すんどめが提唱している概念である。
『男はつらいよ』も『喜劇急行列車』も『拝啓天皇陛下様』も、みんな『泣いてたまるか』シリーズの一部と考えることが自然で合理的だからそのように錯覚してしまうのだとしたら、なるほどそれはシェーンの誤謬と、言えなくもない。
(以下、引用はすべて記憶によるものであって、正確ではない。)

そもそも『渥美清の泣いてたまるか』は、渥美が毎回さまざまな職業や身分の主人公を演じ分けるという、斬新きわまる手法の作品であった。
回どうしには内容上・設定上のつながりがまるでなく、全く別の物語が回ごとに完結する。
ドラマのタイトルでもありその主題歌のタイトルでもある『泣いてたまるか』が表す通り、渥美演じる主人公は60年代当時のなにかしらの世相の中、たまらなく泣きたくなるような悲しい目に遭う、という1点だけが回を超えて共通している。
渥美の扮する職業は、

工員
魚屋
警察官
タクシー運転手
大工
フラミンゴ調教師
季節労働者
露天商
警備員
野球審判
長距離運転手
冠婚葬祭場専属仲人(というより司会者)
漫画家
おもちゃ職人
床屋
企業の謝罪担当者
特撮の着ぐるみ操演者
傷痍軍人を装う詐欺師

などなど、実にさまざまである。
中でも警官と運転手の回は多い。
が、それ以外に回どうしで「かぶる」職業は、ほとんどない。
こうした構造を、同ドラマはそもそも持っているため、他の作品で渥美がどんな職業の男を演じようと、何の違和感もなく、いつもの『泣いてたまるか』の延長として観ることができてしまうというわけなのだ。
しかも、単にそれだけではない。
さらに詳しく見てみよう。

『泣いてたまるか』のストーリーは、そのほぼ半分を、主人公が美女に恋し、美女のために奔走する切ない物語で占められている。
と言えば、お気づきだろう。
そう、まるで「寅さん」なのだ。
のちの「寅さん」シリーズに直接つながるようなストーリー展開が、すでにそこにはある。
むろん、彼の恋は容易に実らず、美しいマドンナにはたいてい素敵な相手がおり、片思いのまま男の悲しい奔走が続くという点も、「寅さん」そのものである。
最終的に、マドンナとめでたく結ばれる回も、あるにはある。
しかし、その一歩手前までは徹頭徹尾「もてない三枚目の一途な悪戦苦闘」であり、結末はどうあれ構成が完全に「寅さん」的であることに変わりはない。
驚くのは最終回であり、なんと「男はつらい」という題である。
念のため書き添えるが、末尾に「よ」はつかない。
監督は山田洋次であり、脇役に前田吟が出ている!
のみならず、内容もまた、やはり切ない恋をしている切ない男の物語。
まさに、のちの山田洋次監督の『男はつらいよ』(寅さん)に直結する最終回なのである。
主役、脇役、監督、題と、これだけの共通点がそろっていれば、「寅さん」が『泣いてたまるか』の延長に思えてしまうのも無理はない。
思えば渥美清という俳優は、数々の美しい女優との共演経験が最も多い俳優なのではなかろうか。
「寅さん」だけでものべ49回、『泣いてたまるか』でも恐らく25回ほどは美しいマドンナにフラれている(最終的にはフラれていない場合もあるが)渥美は、もしかすると、どんな二枚目俳優よりも数々の美しい女優たちと共演したことになるのではなかろうか。
これほど多くの美女と映像の中で恋愛をした男優は、実は他にいないのではかなろうか。
こうまで徹底してもてない男を貫いた彼は、結果的にはとんでもなく「もてている」ことにならないか。
浮き名とは、逆説的にも渥美清のためにある言葉なのかも知れない。

「寅さん」とのつながりは、それだけではない。
『泣いてたまるか』で渥美が演じた主人公の中には、飯場から飯場を流れ歩き仁義を重んじる男や、港から港を渡り歩くややガラの悪い男など、まさにフーテンの寅さんを想起させる男も多い。
中でも注目せざるを得ないのは、こうもり傘の実演販売を生業とする主人公である。
彼は路上で声を張り上げ、

はい、こうもり傘だよ。
丈夫なこうもり傘。
丸の内、一流デパート、紅・白粉つけたお姉ちゃんから買おうてんなら2,000円とはくだらないしろもんだ。
ねえ!

どこかで聞いたことがあるだろう。
すんどめはこれを聞き、なるほどと膝を打った。
そもそも渥美清という人は、思春期に終戦を迎えている。
戦後の上野・アメ横で、露天商の人々がまくしたてるタンカ売の売り口上を、日がな一日見物して、すべて暗記してしまった。
渥美の記憶がいかに正確かを実証する映像が、以前NHKで流れていた。
戦後間もないころのタンカ売の実録である。

浅野内匠頭じゃないが腹ぁ切ったつもりで1個30円
いや20円
エイこうなりゃ自棄だ
自棄のやんぱち日焼けのなすび
色は黒くて喰いつきたいが
あたしゃ入れ歯で歯が立たないよときた!

「寅さん」の中で渥美が言っていることとほとんど同じである。
やがて渥美は役者となり、浅草で大スターとなり、映画でも成功し、さて次はテレビだ、テレビで何か面白い企画はないか、と放送局の人と相談になったとき、
「実は俺、こういうことができるんだ」
と言って俄然、

四谷赤坂麹町
チャラチャラ流れるお茶の水
粋な姉ちゃん立ちションベン

かつての記憶をほとばしらせた。
それ面白いね、ということになって始まったのがテレビ・ドラマ『男はつらいよ』の企画であったそうな。
当時を監督・山田洋次がふりかえって語るに、山田の定宿を訪れた渥美が、

大したもんだよカエルのションベン
見上げたもんだよ屋根屋のふんどし
けっこう毛だらけ猫灰だらけ
おケツのまわりはクソだらけ

ここでもまた、例の売り口上を延々と、放っておけば何時間でも際限なくやってみせるのだという。
山田は、なんという記憶力の人だと三嘆。
……といったエピソードを思うとき、「寅さん」に先んじて放送された『泣いてたまるか』の中、渥美がこうもり傘の売り口上を例の調子でまくしたてていたのもうなずける。
やはり寅さんにしても、またこの実演販売の男にしても、脚本家の着想ではなく、渥美自身の経験から来る渥美のアイディアによって形成されたキャラクターなのに違いない。
だからこそ、「寅さん」シリーズでも裏切りなく例のシーンを入れたのであろう。
あの売り口上のシーンがあってもなくても、「寅さん」のストーリーに大きな影響はない。
ないにも関わらず、毎回わざわざ入れるのは、やはりあれこそが「寅さん」という企画の最も重要な部分だからであったのだろう。
以上のようなことを考えるにつけても、『泣いてたまるか』と「寅さん」は1つのつながった作品に思えるのである。

では、もてない三枚目の悪戦苦闘を描いた回以外は、どのようなストーリーが多いのであろうか。
これは逆に、既婚者の悲哀というパターンが多い。
ここで渥美の妻を演じるのは、佐藤オリエのように誰が見ても美しく可愛らしい女優もいるにはいるが、市原悦子、春川ますみ、左幸子ら、美しくないなどと言っては失礼極まりないしもちろん美しいのだが、美しさよりも面白さや気立ての優しさ、あるいは当時の時点での年増らしさを前面に押し出した個性的な女優が多い。
妻帯者として、子持ちのサラリーマンとして、はたまた一度は結婚したものの奥さんに逃げられた男ヤモメとして、さまざまの苦労にじっと耐える渥美、という構図。
むろん、上で述べたもてない三枚目の片思いパターンと、既婚者の悲哀パターンとの、ハイブリッド型もある。
すなわち、市原悦子と結婚して子もなした渥美の目の前に、若く可愛らしい教師・栗原小巻が現れるといった類の物語である。
このような『泣いてたまるか』における1つの型の、完全なる一環としか思えないのが、渥美主演の映画『喜劇急行列車』である。
『喜劇急行列車』では、渥美は車掌である。
これまた、『泣いてたまるか』でいかにも演じていそうな職業の1つである。
ここでの渥美は4人の子持ちで妻は楠トシエ。
そんな車掌の前に、かつての片思いの相手で今は美しい人妻となった佐久間良子が現れる。
と、このように、逆説的なことながら、寅さん的でない主人公の場合は既婚者の悲哀を描くばっかりに、寅さん的でない他の渥美映画に関しても、やはり『泣いてたまるか』の枠内に収まっちゃうわけである。

さらに、である。
『泣いてたまるか』の中の数話には、非常に強い反戦のメッセージが込められている。
元兵隊を演じる回は1度や2度ではない。
また、終戦の時点では少年であったのだが歳をごまかして傷痍軍人を装い、戦後の東京で歌って人々の恵みを受け取るインチキ傷痍軍人の回もある(これがすんどめの最も強くお薦めしたい回であり、また当時大反響を巻き起こした回でもあるらしい)。
いずれも戦争にかかわるエピソードの場合は、直接・間接を問わず、戦争への非常に強い批判精神に満ち満ちている。
それで思い当たるのが、はやり渥美主演の映画『拝啓天皇陛下様』であり、『あゝ声なき友』である。
『拝啓―』では元兵隊の悲惨な末路が悲喜劇の形で描かれる。
いっぽうの『あゝ―』は、なんでも渥美清が独自のプロダクションを創設してまで企画した自身渾身の一作。
ここでの渥美はやはり兵隊で、戦友達から家族らへ向けられたたくさんの手紙を預かってしまい、預かった直後に戦友が全滅したため、戦後、北は北海道から南は九州と、遺族を探し歩き、長年にわたって手紙を届け続けるという物語である。
誰からも称賛されず、ひどい場合は愚かだと批判さえされる。
それでも男が手紙を届け続けたのは、黙殺された彼の「怒り」によってであった。
戦後に生き残った、あるいは戦争で亡くなった、名もない人々の静かな怒りが込もった作品なのである。
これまた、いかにも『泣いてたまるか』にありそうなエピソードではないか。
のみならずこの主人公は、手紙を届けるために旅から旅の暮らし。
その意味では寅さんにも通じるのだが、それ以上に注目すべきは、旅暮らしのために長期の定職にはなかなかつけず、闇市で米軍の残飯を売る仕事や、保険の外交員など、さまざまな職業を短期で渡り歩くというその設定である。
さまざまな職業、というのがまた、なんとも『泣いてたまるか』全体の構造を想起してやまないのである。

とまあ、このようして『泣いてたまるか』というのぞき窓から渥美清という役者を改めて概観してみるに、恐らく彼が生涯一貫して演じ続けた男たちは、一見、どこにもいないような独特の面白さや魅力を持っているようではあるが、しかし実はそうではなく、どこかにいた、いや、どこにでもいた現実の男たちだったのである。
たとえば『泣いてたまるか』のある1話に、出世コースを外れた刑事が主人公という回がある。
彼は貧乏所帯の子だくさんで、大学受験を控えた長男などは、うだつの上がらぬ父親を軽蔑してさえいる。
しかし物語の後半。
実はこの家の子どもたちは本当の子どもたちではなく、犯罪者の妻が身ごもって出産を断念しかけていたところ、この刑事が説得して産ませ、こっそり引き取って育てた子どもたちであったことが明らかとなる。
彼と、子どもが産めない彼の妻は、犯罪者の妻に出会うたびにこうしたことを買って出て、いつの間にやら子だくさんになってしまったのだ。
生活に困窮しながら、ともすれば失われていたかもしれない命を守り、育てていた夫婦。
彼らは何の名誉も報酬も望まず、ただただ自分たちの本心と希望のおもむくままにそうやって子どもらを立派に育てていたがために、世間の誰からもその功績を讃えられないどころか、そもそも知られていない。
知られてはいけない偉業なのだ。
結果、家族のこの極めて尊い秘密が明かされることは、決してないのだった。
すんどめ思うに、このような人は、社会のすみずみに実はたくさんいる、あるいはいたのではなかろうか。
社会を、その命を支え、人間の世を成り立たせている真に尊い偉業を、誰にも知られず、ひっそりと守っている人たち。
彼らがいるからこそ、かろうじて成り立っている現代の人間社会。
従ってどこにもいないようでいて、しかしどこにでもいる沈黙の人々。
それがつまるところ、渥美清の演じた男たちなのではないか。

どこにもいないようで、どこにでもいた男。
そんな渥美清像を、改めて得られることが、『泣いてたまるか』効果である。

参考:NHK

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