キャパを超えるキャパへの怒り ~美人を不美人に偽装するノウハウ

ヒッチコック監督の名画『裏窓』(1954年、米)には、言いたいことが腐るほどある。

何が見逃せんといって、グレイス・ケリーの常軌を逸した美貌!
これである。
正直に白状すれば、すんどめはこの映画によって、動いているグレイス・ケリーを初めて見た。
グレイス・ケリーといえば絶世の美女として誉れ高すぎ、すんどめごとき若輩ものには、もはやクレオパトラ・楊貴妃・巴御前らと同様、伝説化された歴史上の人物であって、観る前から過剰に期待をしてしまうため、その登場シーンを観たときには、
「あれ? この人が本当に、あのグレイス・ケリーか……?」
じゃっかんの幻滅を禁じ得なかったのは、本人にはたいへん失礼きわまりないことながら、伝説の大きさのゆえに致し方のないところである。
しかし。
ここで幻滅したすんどめこそ、世界から真に幻滅され、唾棄され、フクロ叩きされねばならないワールド・クラスの愚か者なのであった。
グレイス・ケリーはこの映画で、2回「お色直し」をする。
すなわち、1回目の登場で黒のドレスを着ていたグレイスは、2回目の登場シーンではベールつきの緑色の帽子をかぶっており、3回目では再び帽子を脱いで、ちょっと明るい色のドレスとなる。
そのお色直しのたび、彼女の美しさが驚異的にアップしていくものだから、すんどめは客席でぶったまげた。
これは、演出家と衣装係が互いに気脈を通じての、不埒な仕業にちがいない。
はじめは卑劣にもグレイス・ケリーの真の魅力を隠ぺいし、物語の進行にともなってその隠ぺいのベールを1枚、また1枚とはがしていって、まばゆい彼女の輝きを少しずつムキ出しにするという、腹黒くも巧妙な陰謀なのである。
それで思い出したが、ビリー・ワイルダーの『昼下がりの情事』でも、演出家と衣裳係が結託して同じように不埒な悪行三昧を重ねていた。
はじめオードリー・ヘップバーンは、ちょっとダサダサ系の髪と衣装で登場し、あ、いや、普通にきちんとした身だしなみのマジメな音楽学校へ通う娘さんとして登場し、オードリー・ヘップバーンの輝かしい伝説に比べればというレベルで、チト垢ぬけしない印象なのである。
しかし。
ゲイリー・クーパーの命を救うため、彼の不倫相手の夫が彼を殺しに来るのを待ち構え、クーパーと不倫している架空の人妻になりすますため、大人の女性に化けたときのオードリー・ヘップバーンの美しさといったら、それはそれは息をのむほどで、さっきまでのダサい恰好は何だったんだ! 偽装か! と暴れ出さずにはいられない。
これが、「化ける」ということなのであろう。
物語上の「化ける」もさることながら、もしや昔の映画では、このように女優の美しさを段階的に引きだす老獪な陰謀というものが、ごく普通に行われていたのだろうか。
とすれば、この時代の演出家たちの、なんとたくらみ深く、粋なことだろう。

それにしても許されざるは、この『裏窓』の主人公(ジェームズ・スチュアート)である。
彼は戦争カメラマンであり、グレイス・ケリー演じる美人モデルから惚れられ、求婚され、自分の仕事の危険性を理由にこれを断るという、なんともケシカラン男である。
これは間違いなく、実在の戦争カメラマン、ロバート・キャパを意識した人物設定であろう。
キャパはイングリッド・バーグマン(しかも当時すでに人妻!)からガチで告られ、求婚され、なんとこれを断った輩である、というフトドキ千万なウワサを聞いたことがある(あくまでもウワサなので真偽については悪しからず)。
イングリッド・バーグマンから愛され、かつフる人生とは、いったいどんな人生なのだろう。
そう考えるとグレイス・ケリーはイングリッド・バーグマン役を演じたことになるわけで、そもそも外人さんの顔の区別がつかないすんどめには、グレイス・ケリーもイングリッド・バーグマンも同じ顔に見えるわけで、すんどめのロバート・キャパに対する怒りは銀幕のジェームズ・スチュアートに対する怒りとなって、キャパを飛びこえてスクリーンに向って照射され、すんどめの堪忍袋のキャパを軽々と超えたのであった(←これが言いたかっただけ)。

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