「飴ちゃん」は「ただの飴」ではない。
子どもたちは、おじいちゃんやおばあちゃんによく「飴」をいただくことがあります。
「飴ちゃん」という表現は、生まれ育ちが東京の私には馴染みがないのですが、「飴」を「飴ちゃん」と呼ぶのは、なんだかとても可愛らしい表現だと思います。
近所のおばあちゃんたちは、エプロンのポケットに手を入れ、「ほら、食べなさい」と子どもたちの手に飴を渡す。なんだか手品のようだなぁ…とポケットをしみじみ眺める。
「お兄ちゃんたちの分はないから、食べちゃいなさい!」とかいって、娘の小さな掌に飴を握らせる。
北海道では、「飴ちゃん」とは言わないようですが、子どもたちに嬉しそうに飴をくれる方々の様子をみていると、それは明らかに、「飴」ではなく、「飴ちゃん」だなぁ・・・と思うのです。
先日も、プールの帰りに大きな公園を歩いていると、ウォーキングしている年配の男性がいました。
私たちの方を見て微笑んで通り過ぎていったので、「こんにちは。」と娘と挨拶をしました。娘は「おじいちゃんは、なんで歩いてるんだろう?」というので、「う~ん、多分、もっと元気でいるために、運動してるのかもしれないね。」などと、話していると、通り過ぎていった男性が、またこちらに向かって歩いて来ます。
明らかに、私たちに向かって歩いてきています。
ずんずんとこちらに向かってきます。
なんだろう?!と思ったら、
「これ、食べてね。」
男性は、おもむろに握っていた手を開いて娘の目の前に差し出しました。
そこには、4個の飴。
娘の分だけでなく、二男と長男、そして、私の分も入っていたのです。
そのとき、二男と長男は傍に居なかったのですが、歩いて私たちを追い越す間に私たちがやりとりする姿を見ていたのでしょうか。人数分の飴が娘の掌にありました。
娘が「ありがとう。」と受け取ると、その男性は、うんうん、と笑顔でうなずいてまた歩いて行かれました。
娘は「あめ、もらったねぇ。」と私の顔を見上げ、「おじいちゃんは、なんであめ、くれたんだろうね?」と。
「そうだなぁ。なんでだろうねぇ。きっと、あなたたちが可愛くて、飴あげたくなっちゃったのかもしれないねぇ~」と答えると、
「あぁ、そうか。」と、娘は、飴をプールバックにしまいました。
子どもが飴をもらう度に、まだ第一子が小さかった頃は、「飴、食べないんだけどなぁ・・・」なんて思うこともありました。
そのうち、子どもたちは自分で判断するようになり、いただいてきても、食べたり食べなかったり。大事にしまっておいて、溶けて形が無くなったり。
こどもたちは「気持ちをうけとる」ことを、大事にしている。
飴をくださる方々も、こどもという存在を「かわいい」「元気に大きくなってね」という気持ちが、何処かにあるのかもしれないなぁ、と思ったりします。
そんな気持ちを伝えるツールとしての「飴」には、「飴ちゃん」という呼び方がぴったりだな。
娘の小さい掌いっぱいになった飴をみて、「飴ちゃん」が愛しく思えた夏の日でした。
学校に行かない選択をしたこどもたちのさらなる選択肢のため&サポートしてくれた方も私たちも、めぐりめぐって、お互いが幸せになる遣い方したいと思います!