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そういうときってどうしてるの?

二男と二人で買い物に行ったときのこと。基本的には穏やかな気性で、気持ちを切り替えたり、楽しいことを探すのが上手だな、と彼を見ていると思う。そんな彼に聞いてみた。


「イライラしたり、怒りたくなったり、そういう時ってどうしてるの?」


「う~ん・・・(しばらく考えて) 自分と話をしてる。
どうしてかな~なんでかな~って。」


なるほど。そうやって、彼は日々の様々を受け入れつつ、調えているんだな。現在、小学校1年生・7歳。

実年齢は、あまり意味がないと子どもたちと過ごしているといつも感じる。経験値に関しては、大人の方が長生きしているので、まぁちょっとは多いかなという程度だと思っている。子どもたちが産まれ、自分の時間の大半を一緒に過ごすようになり、様々な感情に出会う。

それは、喜ばしいものばかりではなく、負の感情もたくさんある。でも、そんな負の感情が顔を出したときほど、自分にとって何かを変える必要があるタイミングであったりする。

どうして、そんな気持ちになったのだろう。何が、私を揺さぶるのだろう。

辿っていくと、過去の経験や記憶だったり、自分の育ちだったりするのだが、そこには、置き去りになっていた自分の経験やそれに伴う感情もあったりする。

そして、その事柄に向き合うことで、子どもたちに揺さぶられたのは元から自分の中に原因があっただけなのだ、とわかる。すると、なんとなくスッキリする。まさに、二男の言う「自分と話をする」という作業だ。

「育ちは変えることができない。」と、ずっと思ってきた。きっとそれは、ある意味、真実だと思う。

「育ちの中で背負ってきた荷物を下ろしたい。」そう思っていたことがあった。それを下ろしさえすれば、もっと楽に生きられるはずだ!と思っていたのだ。

でも、ある時、幼稚園のスタッフに言われた言葉で、私の価値観はひっくり返された。「荷物を全部下ろさなくても、背負いながらバランスをとって生きてくってのもありだよね。」「あなたをみていると、〈育ち〉って乗り越えられるものなんだって思ったよ。」

なにかあるたびに、この言葉が私を支えてくれる。

私を形作っていいる、心地良い経験も、負の感情も、重くなり過ぎたら、一休みして、背中から下ろしたり、「あ、コレはもう必要ないな」って、さよならする。でも、まだまだ背負ってるものも含めて私だ。微妙なバランスを取りながら、歩いたり、走ったり、休んだりしていこうかな、と今の所は思っている。

私は、そのような事に気がつくのに何十年も時を費やしてきたが、自分でその感覚を既に得ている子どもたちは、この先どんな風に生きていくのだろう。自分の好きなことを、好きなように、そして、自分のことが好きでいられる生き方ができたらいいな。そんな風に思いながら、毎日を子どもたちと過ごしている。

学校に行かない選択をしたこどもたちのさらなる選択肢のため&サポートしてくれた方も私たちも、めぐりめぐって、お互いが幸せになる遣い方したいと思います!