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私は、〈やまねこ〉のように在りたい。

一昨日のnoteで、絵本「くまとやまねこ」を紹介させていただきました。

そして、ふと、思い出したことがあり、ちょっと書いてみようと思います。

今、我が家には、3人の子どもたちがいます。第3子である末娘が産まれる前に、流産を経験したことがありました。当時、長男と二男と一緒に幼稚園に通っていたので、園のお便りに、その経験について、書いたことがありました。

私は、流産を通して、悲しい、とはまた違うなんとも表現しようのない感情を味わったり、身体の辛さなどもありましたが、何よりも、命の不思議さを感じていました。

あたりまえのように、ここに存在している子どもたちや夫に対して、「なにげない毎日がどれだけ、ありがたい日々なのか」と、感謝の気持ちが静かに湧いて来ました。生命というものは、人智を超えているのだな・・・と。

そのような事柄を書いたお便りを読んで、園に通うお母さんたちから、様々な感想や励ましを頂いたことを、今も鮮明に思い出すことができます。

「辛かったでしょう!!!」と声を掛けてくれる方もいれば、自分も流産や不妊の経験があったよ、と打ち明けてくれる方、「医学的によくあることだよね。」と言った方もいました。

実際に、病院で検診後、流産したことがわかり、泣いている私に「よくあることだから」と看護師の方も声を掛けてくださいました。

看護師の方の口調はとても穏やかで、私を慰めるようとするものだったと思うのですが、私は「医学的によくあることだから、だから、なんだというのだろう。」と思ったのでした。

〈医学的によくあること〉だとしても、同じ様な経験をしている人がたくさん居ても、様々なことばを掛けてくれても、この経験は「私だけのものなのだなぁ・・・」とその時に実感したのです。

当然ながら、同じ文章を読んでも、これだけ受け取り方、感じ方は様々なのだと驚くと共に、「寄り添う形」の難しさについて考えるきっかけになりました。

それぞれ育ったバックグラウンドは違い、受け取りかたは、千差万別。

その人が何を求めているかということは、他人には、わかり得ない、と私は思っています。「わかるよ」と簡単に言ってしまうのは、なにか違う気がしています。

誰かの心の機微を到底同じ様には感じられないと思うのです。
それでも、相手のことをほんの少しでも理解できたいいなと思う。

だから、最大限に想像する。

相手の状況を、こころの動きを。

それでも、足元にも及ばないだろうなと思うけれど、「同じ様に感じることはできない」「わかりあえない部分がある」からスタートしたいし、そうすることしかできないと思うのです。

当時、幼稚園に卒園生の小学6年生の女の子が、突然(親にとっては、そうだったらしいです。)学校に行かない選択をし、我が家の長男と同級生である妹と幼稚園に通ってきていました。彼女は、我が家の二男を赤ちゃんのときから、とても可愛がってくれていました。

久々に長男の卒園式で顔をあわせた彼女は、階段に座って窓の外を眺めていた私の傍にそっと腰を降ろすと、「からだ、大丈夫?」とだけ言って、そっと、私の傍に座っていてくれました。

彼女は、配られたお便りを読み、私に起きたことがらを知ったのでしょう。

私たちは、お互いに、ことばを発することなく、黙ったまま座っていました。私は、彼女が隣に座ってくれている時間と空間を、ゆっくりと味わっていました。

当然ながら、彼女には出産の経験も、子育ての経験もない。でも、そんなことは、問題ではない。大人は、経験とことばを多く持ちすぎてしまっているのかもしれないな・・・。

私は彼女の姿からそんなことを感じたのです。

経験が先を予測し、状況を見越して、危険や失敗を回避できることも、多々あると思います。

でも、それが、〈正解〉と言われたら、なんとなく、違うように思えてくるのです。そもそも、正しいとか、間違っているとか、どちらでもないし、どちらも存在していないのではないのではないか・・・。

女性であるとか、出産をしたとか、子育てをしているとか・・・
一見したら、同じ経験をしている、共通項があるように見える事柄も、
決して、すべてが同じではない。同じになりようがないのだと思います。

大人になった自分の経験というものは、子どもに比べれば、長く生きているので、多いように感じることもあります。でも、それも、実は、ほんのひとにぎりでしかないのだと思うのです。

年齢と感じることの多さが比例するとは限らないのではないでしょうか。

誰かの経験した事柄、そしてそれにまつわる微細なこころの動き。

決して、同じようには、感じられないという事実。

その前提で、私は、どこまで、相手を尊重し、置かれた状況を想像することができるのだろう?

誰かに悲しいこと、困ったできごとがあった時、自分の目に見える範囲のことだけを拾い上げ、「何か、言わなくては」と、どこか義務感から来るような〈ことば〉を投げかけたくはないと思うのです。

「同じ様に見えても、似ているように見えても、その人だけが、経験している唯一のこと」として、目の前の相手に想いを馳せる〈やまねこ〉のようで在りたいのです。

ふと、そんなことを思った雨の午後でした。

学校に行かない選択をしたこどもたちのさらなる選択肢のため&サポートしてくれた方も私たちも、めぐりめぐって、お互いが幸せになる遣い方したいと思います!