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学校に行かないという選択。その3。あくまで、選択肢のひとつ。

学校に行かない選択をしている我が家の子どもたち。

ご近所には長男の同級生もいる。時々そのお母さんやお父さんとも顔を合わせる。挨拶は勿論するし、私としては、別段困ったこともない。(過去に一回だけ、ご近所とのやりとりで、驚いたこともあったが、それはまた別の時に。)

しかし、そんな中で考えるのが「子どもたちが学校に行っていないということで、周囲がある程度の気を使う可能性があること」についてだ。場合によっては、「学校に行かせていない、変わった家庭」として、とらえられているのだろうなぁ、と思ったりもする。

長男の同級生のお母さんとバス停で一緒になったことがあった。その日は平日、もちろん学校のある日だ。私は、子どもたちと科学館にプラネタリウムを観に行くところだった。

当然、子どもが学校に行っていないことは知っている。共通の話題として、「学校の話題」はとても有効なカードだ。しかし、そのカードを使えないとなると、なんとなく居心地の悪さを感じているのではないだろうか。多くの場合において、「共通項がある」というのは、安心感を得るのだろうし、とっかかりやすいものだろうと思う。

挨拶をしたあとに、「〇〇くんは、もう個人面談終わりましたか?」と、こちらから、学校の話題を切り出した。同級生のお母さんは、なんとなくホッとした様子で、そこから学校の話を始めた。

敢えて、こちらから学校の話をするのは、我が家のスタンスを少しでも感じてもらえたらいいなと思うからだ。私や家族は気にしていなけれど、世の中に一歩出たら、完全に少数派だ。

きっと周囲の方々は「やなぎださんの子が学校に行かない理由」に想像を巡らせることもあるかもしれない。明らかな理由を聞くにも、話すにも、そこまでの間柄ではない場合、どう扱っていいものだろうと思うだろうなぁと、常々考えていた。

確実に相手の中で、「コレは聞いてはいけないこと」リストの上位に入っているに違いない。逆の立場だったとしても、きっと「敢えては聞かないこと」リストに入れるだろう。

学校に行くことは当然の選択であったり、それほど学校が楽しいわけではないが、楽しみを見つけ、安心して生活する為にも行っていた方が望ましい場合もあると思う。子どもが学校に行ってないと仕事に出られない、子どもの居場所として学校を捉えているなど、理由はそれぞれだろう。

我が家の子どもたちは、たまたま、「行かない選択をしている」というだけであって、どのような選択も、良し悪しのジャッジの枠の外側にあると思っている。

学校に行かないという選択は、メディアなどで取り上げられることが増えたようで、不登校、フリースクール、ホームスクーリング、などの単語も耳にし、徐々に認識されてきている面もあるようだが、「学校に行くのがあたりまえのこと」という中では、なかなか肯定的に捉えにくいのではないかと思う。

「ただの選択肢のひとつだよね~」と社会で認識されるには、まだまだ時間がかかるだろうと感じる。だから、周囲は学校に行っていない我が家の扱い方に迷うのだと思う。

私や夫の場合は、「学校」の話題になっても、余程、デリカシーのない聞き方でなければ気にならない。子どもたちに直接聞いたことはないが、学校の話題になっても、何も気にしていない様に見える。我が家に関してだけ言えば、「学校の話題」というカードは、出してもらっても問題ない。

我が家の子どもたちは、ご近所のおばあちゃんに革細工や手芸を教わりにいっている。あちらから声をかけていただき、「いつもでおいで、教えてあげるから」と歓迎してくれている。

うかがうのは、平日の昼間。きっと学校があることも知っているのであろうが、学校に関して何か聞かれたことはない。子どもたちととても丁寧に関わってくださっていて、ありがたいかぎりだ。

子どもたちは、手芸を教わりながら、おばあちゃんたちの昔の話を聞いたり、世間話をしているようだ。そしておばあちゃんは、私と顔を合わせる度に、子どもたちのことを褒め、こんなことに感心した、などの話をしてくれる。

子どもたちは、私の居ないところで社会を感じ、学び、自分で人との距離をとらえてお付き合いしているようだ。

そんな日々の中で、「学校に行く・行かない」以前に、「どのような関係性をつくっているか」で、相手にとっての「子どもが学校に行っていない」ことは、たいしたことではなくなるのかもしれないなぁ、そうであったらいいなぁ、と思う。学校が先に在りきではなく、目の前の子どもの存在をまず感じてもらえたらいいなぁと。

学校に行っていることでしか見えない景色があり、学校に行っていないことで見える景色がある。学校に行く・行かないに関わらず、子どもたちを取り巻く人たちが見ている景色がある。

様々な仕事をしている人の景色、主婦として生活する人の景色、年齢を重ね老いていく時の景色、思春期の青年の景色、産まれたばかりの子どもの見ている景色。

自分が今まで見覚えのある景色であれば、少なからず、想像できる部分もあるかもだろう。しかし、それはあくまで「想像」であって、決して「合致」ではない。その景色は、ものすごく「個人的なもの」だろう。

そのことをいつでも、頭の片隅に置きながら、それぞれが、互いの見ている景色をいい具合に眺められたらいいのだけどなぁ~と思っている。

あなたが、今、見ているのは、どんな景色ですか。




学校に行かない選択をしたこどもたちのさらなる選択肢のため&サポートしてくれた方も私たちも、めぐりめぐって、お互いが幸せになる遣い方したいと思います!