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「た」は『ジョジョの奇妙な冒険』!?【「た」と東北方言《前編》補足】

さあ、始まりました。「カタルシス方言文法」! 初回はいかがだったでしょうか? この記事は、第1回の動画について補足するものです。動画の視聴がまだの方は、こちらからご覧になった上でお読みください。

【「た」と東北方言《前編》】

今回のテーマは現代日本語の過去表現「た」。尾上圭介(2001)『文法と意味Ⅰ』(くろしお出版)の分類による「た」の6つの意味「過去・完了・単なる状態・確言・要求・想起」。これがもっとスッキリ整理できるというお話です。結論から言うと、「た」がこれだけ多くの意味を表すのは、それが辿ってきた歴史的変遷の結果だと考えられます。

第1回はまず、テンス・アスペクトの「た」と呼ばれる前半3つの意味の関係について説明しました。前の記事に書いた通り、今回のキーワードは「コネドる」(コネクティング・ザ・ドッツする)。点と点を繋ぐということで、現代日本語の「た」のもとになった古典語の形式、3つの意味の連続性、3つの意味とマンガの登場人物の類似性などについて話しました。ポイントを簡単にまとめておきましょう。

  1. 「た」の語源を遡ると「たり」、さらには「てあり」。
    ⇨「た」の大元の意味は「単なる状態」(「たり」の表した存続)。

  2. 「単なる状態」は少々ミスリーディング。「結果状態」と捉え直そう。

  3. テンス・アスペクトの「た」は〈結果状態〉→〈完了〉→〈過去〉と変化。これは現在の状態から過去の運動へ比重を徐々に移していく形。
    ⇨『ジョジョの奇妙な冒険』第1部~第3部の主人公にたとえられる。

それでは以下、動画の内容に関する補足をしていきます。


どうしてまた「た」を取り上げた?

「ゆる言語学ラジオ」で、過去に全6回にわたって公開された「た」の回。今さら話すことなんてないんじゃないかって? いやいや、まだ沢山ありますよ。動画中でも言っていますが、僕ほど「た」が好きな人間はいませんから。基本的に、研究者は研究対象とフラットに向き合うべきという考えを持ってはいますが、それでも「た」は特別。大学院に進学して研究を始めたばかりの頃から取り組んでいるテーマだけに、強い思い入れがあります。

では、自分の好きなものについて話したいというただの自己満足か。そうではありません。好きなものについては、どこが面白いかよく分かっていますし、思い入れがあるので、言葉にも熱がこもります。それが話を楽しくする。自分の一番好きなものについて話すことで、ひいては皆さんに一番楽しい話が提供できると考えます。

また、水野さんが「た」の回の撮り終わり雑談回で話していた台本作成時のエピソードに共感したことも、このテーマを取り上げた理由です。収録前夜の午前3時頃までかかって台本を書き上げ、思わず「できた、面白い!」と声に出してしまった。布団に入るも、台本が面白すぎてほとんど寝られず、そのまま収録へ…。とてもいいなと思いました。水野さんが溢れんばかりの熱を込めて作り上げた「た」の回、素晴らしいシリーズになりましたが、一方でもったいないと感じる部分もあった。そこを修正したいというよりは、すごく面白いからこそ、さらに良い形で伝えたい。そう考えました。

その雑談回で、堀元さんが言われていたことにも共感します。ニーズに合わせていないが、本気でやっている。そこがいい。その通りですね。とっつきやすいテーマではないと思います。だけど、万人受けすることより、たとえ少数でも心から面白がってくれる人がいることを話したい。僕は知っています。「た」の回には根強いファンがいることを。動画のコメントやツイートで、「た」の回が一番好きという言葉を沢山見かけました。だから、今回の動画を楽しんでくださる方は意外に多いのではないかと。勝算はあります。どこまで潜っても底が見えない「た」沼。既に足を踏み入れている方達をさらなる深みに引き込み、遠巻きに見ている方達を沼の中へといざないたい。動画を観終わったら、あなたも「『た』沼恋しき」となっているかも!?

本題に入る前に…

さて、ここから動画で理解が難しかったと思われる部分について説明していきますが、その前に少し。今回、文法形式やその意味の呼び方は、以前の「た」の回で使われていたものをそのまま使いました。ですが、これは普段自分の研究で使っているものと違い、不正確なところがあるため、その話をしておきます。この後の話を理解する上で必要なことではないので、細かいことはいいやという方は、どうぞ読み飛ばしてください。

まず、「た」の意味という言い方をしていますが、これは問題があります。基準となる時点(普通は発話時)との時間的な関係を表し分ける「テンス(時制)」という文法カテゴリーは、現代日本語では、〈非過去〉を表す「する」(例:今夜はカレーを食べる)と〈過去〉を表す「した」(例:昨夜はカレーを食べた)との対立からなりますが、〈過去〉を「た」の意味としてしまうと、「た」の付かない形は何も表さないことになってしまいます。〈過去〉はあくまで、述語に「た」の付いた形「した」が「た」の付かない形「する」との対立において表す意味とすべきです。

ここから、文法形式の呼び方についても、「た」ではなく、「する」と対立する「した」、またはル形と対立するタ形とするのが適切だと言えます。僕は、述語に「た」の付いた形を「~た」と表記し、これが「基本形」と対立するとしています(「する」「した」だと動詞に限定されるため)。

また、出来事をひとまとまりに捉えるか、分割して動作過程や結果といった一段階のみを捉えるかを表し分ける「アスペクト(相)」という文法カテゴリーは、現代日本語では、〈完成性〉を表す「する」(例:カレーを食べる)と〈継続性〉を表す「している」(例:カレーを食べている)の対立からなります。上で見たことと併せて考えると、「する」は、「した」とのテンス対立においては〈非過去〉、「している」とのアスペクト対立においては〈完成性〉を表し、テンス・アスペクト的意味として〈非過去〉の〈完成性〉を表すと言えます。このような関係を簡単に整理しておきましょう。

【表1】現代日本語のテンス・アスペクト体系

このような考え方から、「した」の意味である〈過去〉は〈過去〉の〈完成性〉ということになります。同様に、〈完了〉は〈現在〉の〈完了〉〈結果状態〉は〈現在〉の〈結果状態〉ということになります。

さらに、〈完了〉についても、自分の研究では〈パーフェクト〉という用語を使っています。現代日本語には、〈パーフェクト〉の形式として、「した」の他に「している」があります。「した」は〈現在〉の〈パーフェクト〉しか表しませんが、「している(していた)」は、次のように〈未来〉や〈過去〉の〈パーフェクト〉も表します。

  • 店に着いた時には、限定品はもう{売れている/売れていた}よ。

「している」の表す〈パーフェクト〉には、次のようなものがあります。

・彼女は3年前にその曲を弾いている。だから、暗譜で演奏できる。

これは〈経験〉と呼ばれる用法の例です。〈完了〉とは少し呼びにくいですが、過去に起こった出来事が現在に影響を及ぼしているという点で共通していますね。〈パーフェクト〉という用語を使うことで、このような用法も併せて扱うことができます。

とまあ、厳密に言えば以上のようになるのですが、分かりやすさを優先して、この記事では、以降も動画と同様、「た」の意味、〈過去〉〈完了〉〈結果状態〉…といった言い方をしていきたいと思います。

結果状態、お前だったのか

それでは、本題に入りましょう! 今回は、「単なる状態」を「た」の大元の意味と考えた上で、それを少々ミスリーディングな用語とし、「結果状態」と捉え直しましたが、分かりづらい面があったかもしれません。まず確認しておきたいのは、状態には、変化を前提とする結果状態と変化を前提としない単なる状態があるということです。「曲がった針金」は結果状態、「曲がった道」は単なる状態ですね。「た」は、確かに単なる状態も表すのですが、「た」の元々の形が継起を表すテ形に存在動詞が付いた「てあり」だったとすると、結果状態の方が大元の意味に相応しいと考えられます。そのことを、『今昔物語集』巻24第43話の紀貫之の話(『宇治拾遺物語』にも同様の話が収録されています)に出てくる次の用例を挙げて説明しました。

  • 土佐守に成りて、その国に下りてありける程に

この例は「(貫之が)国司になって、土佐に下って、そこにいた間に」と解釈されます。その場合、「あり」は「土佐に下る」という移動に後続する別個の事態として、本来の意味の〈存在〉を表しています(いわゆる本動詞としての用法)。一方、この例を「土佐に下っていた間に」と解釈することもできます。その場合、「あり」は「下りて」と一体になって、移動した後の〈結果状態〉を表しています(いわゆる補助動詞としての用法)。

このように、移動を表す動詞(「着く」「入る」「乗る」など)においては、移動してその場所にいるという状況が直ちに移動によってもたらされた結果の状況となるため、テ形に「あり」の付いた形が「~して、そこにいる」という意味にも、「~している」という意味にも解釈されます。この種の用法が、「あり」の持つ〈存在〉の意味が〈状態〉の意味にシフトする契機になり、移動、即ち位置変化の結果状態から、さらに他の変化の結果状態へと意味が拡張していったと考えられるでしょう。「た」の大元の意味を「単なる状態」ではなく「結果状態」と見るべきだとしたのは、以上のような理由からです。

念のため付け加えておきますが、上で挙げた『今昔物語集』の例自体を、「あり」の〈存在〉の意味から〈状態〉の意味が生まれる萌芽と見ているわけではありません。「てあり」に由来する完了の助動詞「たり」は、それより遥かに前から用いられていましたので。そのような意味のシフトの起点になった例を考えるとすれば、移動動詞のテ形に「あり」が付いた同種のものだったのではないかということです。

僕ら3人、繋がっていた

このように、「た」の大元の意味を「単なる状態」ではなく、変化を前提とする「結果状態」と考えることで初めて、テンス・アスペクトの「た」、即ち〈過去〉〈完了〉〈状態〉の3つの意味が持つ連続性が捉えられます。ここでのポイントは、3つの意味が現在の状態とそれをもたらした過去の運動のそれぞれに対する比重の置き方の違いによって、グラデーションを成しているということです。この点に関して、例を挙げながら、もう少し詳しく説明しておきたいと思います。

まず、〈結果状態〉の例から見ていきましょう。

  • 5人の部員が集まっている。

現代日本語の「た」は、「集まった5人の部員」のような連体修飾節でのみ〈結果状態〉を表すので、「ている」の例を挙げています。

これに対して、〈完了〉の例は次のようなものです。

  • 今年は5人の部員が集まった。

上に挙げた〈結果状態〉の例との違いはどこにあるでしょうか。〈結果状態〉の場合は、「5人の部員が集まる」という運動(変化)を前提にしているとは言え、それがもたらした「5人の部員がいる」という現在の状態が専ら捉えられています。一方、〈完了〉の場合は、先立つ運動の方に比重が置かれていますが、それが現在に及ぼす影響も同時に捉えられています。この影響は、運動の直接的な結果(上の例では5人の部員がいること)にとどまらない広い意味での結果、即ち「効力」です。例えば、5人集まったことで活動が継続できるという状況が考えられますね。〈完了〉は現在と関係付けられた過去だと言えます。

続いて、〈過去〉の例を見ましょう。

  • 去年は5人の部員が集まった。

この場合は、上の〈完了〉の場合と違って、先立つ運動が専ら捉えられ、それが現在に及ぼす影響は切り捨てられています。例えば、去年は5人集まったが、今年は5人集まらず、活動が継続できないという状況が考えられますね(そのような対比的な読みに限りませんが、少なくとも、去年5人集まったことは、現在に何も影響を及ぼしていません)。

以上のことから、テンス・アスペクトの「た」について、現在の状態と先立つ運動のそれぞれを専ら捉える〈結果状態〉と〈過去〉、双方を捉えて両者の中間に位置付く〈完了〉という連続性が浮かび上がってきます。以前の「た」の回では、「過去がテンス、完了と単なる状態がアスペクト」としていましたが、〈完了〉はテンス・アスペクトの両方にまたがる意味とするのが適切ですね。このような連続性に基づいて、「た」は現在の状態から先立つ運動へ比重を徐々に移していくことで、〈結果状態〉→〈完了〉→〈過去〉の順にその意味をシフトさせていったと考えられます。

ここまでの内容を、分かりやすく図にまとめておきましょう。

【図】テンス・アスペクトの「た」の意味変化

このような連続性や意味のシフトは、変化を前提としない「単なる状態」を大元の意味としている限り、見えてきません。動画の38:25で簡単に触れていますが、「単なる状態」は〈結果状態〉から派生したものと考えられます。〈結果状態〉から先立つ運動へ比重を移していったのが〈完了〉〈過去〉だとすれば、逆に先立つ運動を切り捨て、現在の状態のみを捉えるようになったのが「単なる状態」だと言えるでしょう。

ちなみに、このような〈結果状態〉→〈完了〉→〈過去〉という変化の道筋は、他の多くの言語でも報告されています。さらに、そこで語彙的資源(文法形式のもとになる語)としてよく選ばれるものの一つに、〈存在〉を表す語があるということです。日本語の「てあり」と共通しますね。この話は、堀元さんの「バイビー」でお馴染みの(?)Bybeeらが詳しく論じています。興味のある方は、次の文献をお読みください。

こうして見てくると、「た」が複数の意味を持つのは、〈結果状態〉から〈過去〉へ至る変化の途上にあるためだと分かります。ある種、過渡期的な様相と言えますね。現代日本語の標準語では、肯定の場合、「た」が〈完了〉と〈過去〉のどちらも表すので、両者が表し分けられませんが、否定の場合は、異なる形で表し分けられます。「~した?」という質問に対する否定の応答を考えてみましょう。これには二種類の表現があり得ます。

  • 部員、5人集まった?
    ―いや、{(まだ)集まってない/集まらなかった}。

部員を集めている途中の場合(現在との関わりあり)は「(まだ)集まってない」、集めることを諦めた場合(現在との関わりなし)は「集まらなかった」が用いられますね。このように、〈完了〉の否定は「していない」、〈過去〉の否定は「しなかった」が表します。そうそう、『それでもボクはやってない』という映画がありました(2007年公開。もう15年以上前ですね)。痴漢冤罪を晴らそうとする若者の話。このタイトルを『それでもボクはやらなかった』としてはダメですね。諦めず無実を主張しているんだから、現在との関わりがある〈完了〉の否定の方を使わなければ。映画のタイトル一つ取っても、ことばについて考える材料になりますよ。

どうして『ジョジョ』になぞらえた?

「た」の意味は『ジョジョの奇妙な冒険』です! 「は、何言ってんの?」と思った方、多かったでしょうね。安心してください、正気ですよ(笑)。第1回のまとめのパートで、現在の状態から過去の運動へ比重を移しつつ意味が変化していくテンス・アスペクトの「た」が、能力を受け継ぎつつ話が展開していく『ジョジョ』にたとえられるとしました。3つの意味を『ジョジョ』第1部~第3部の主人公になぞらえると、それぞれの意味が捉える事態の側面と主人公達の能力が(抽象性・具体性という点でも)重なります。これを表に整理しておきましょう。

【表2】テンス・アスペクトの「た」と『ジョジョ』主人公の類似性

テンス・アスペクトの「た」と『ジョジョ』、両者に共通するのは「受け継ぐ」。これがキーワードです。能力だけでなく信念、宿命。主人公が交代しながらも、世代を超えてそれらが受け継がれていく大河ドラマ。『ジョジョ』にたとえたのは、「た」の意味は大河ドラマであると言いたかったからに他なりません。

堀元さんは、『ジョジョ』の単行本のあとがきに「勇気の物語です」と書いてあると言われていましたが、作者の荒木飛呂彦先生は、こんなこともおっしゃっています。『エデンの東』のような大河ドラマを描きたかった(「ノブレス・オブリージュ」じゃないですよ。それは『東のエデン』)。以下、『ジョジョ』連載25周年(2012年)のインタビュー記事からの引用です。

ストーリーとしては、「エデンの東」のような大河ドラマや、子供の時から好きで読んでいる「シャーロック・ホームズ」やホラー短編集を、自分なりにすごく分析して作りました。ストーリーが綿密に組み立てられて、何らかの伏線があってオチに向かっていくというような。「武装ポーカー」(高田注:荒木先生のデビュー作)の時代から、ストーリーにこだわって、すごく冒険的に作ってきた感じはありますね。

「『ジョジョ』が25年続いている理由」―荒木飛呂彦氏が語る”.
日経クロストレンド.2012-10-19,(参照 2023-7-25).

同じ記事の中で、「『エデンの東』のように、世代が変わっていく話を核にできたらいいな」と思っていたともおっしゃっています。荒木先生がそう思っていたとすれば、『ジョジョ』を通して「た」の意味について描きたかったと言ってもいいでしょう!(過言)「た」の意味もまた、長い年月をかけて、元の意味が持っている特徴を受け継ぎつつ変化してきたわけですから。いかがですか、堀元さん?

「た」の意味は、『ジョジョ』のような大河ドラマ。そんな考えのもと、〈結果状態〉をジョナサン、〈完了〉をジョセフ、〈過去〉を承太郎としましたが、波紋・スタンドという能力に加えて、3人のパーソナリティーとも通じるところがあると思います。まずは、最初こそ頼りない印象で主人公らしくなかったものの、立派な紳士に成長していくジョナサンと、雑魚だと思いきや、意外や意外、大元の意味だった〈結果状態〉。次に、器用(トリッキーな戦い方が得意)で、正義感や勇気を持ちながらも気性が荒く、おちゃらけた性格という二面性があるジョセフと、現在・過去の二つの側面を捉える〈完了〉。そして、口数が少なく孤高で、女子生徒からキャーキャー言われるものの、それを鬱陶しいと思っている承太郎と、現在から切り離された〈過去〉。それぞれイメージが重なります。その意味でも、たとえがうまくハマっていたなと。

こんなふうに、文法形式について何かにたとえてみることで、親しみを感じられるのではないでしょうか。『ジョジョ』を履修していない人は、他のものでもOK! 例えば、「た」をカエルにたとえると、〈結果状態〉がオタマジャクシで、〈過去〉がカエル〈完了〉は足の生えたオタマジャクシですね。『マクロス』でたとえると、〈完了〉はガウォーク(戦闘機とロボットの中間的な形態)。楽しくなってきませんか? 前回の記事で、「文法はともだち。こわくないよ」と言いました。文法に対する苦手意識を少しでも払拭してほしい。そう考えたことも『ジョジョ』にたとえた理由の一つです。

今回は「た」について話しましたが、ある文法形式の複数の意味は、歴史的変遷の結果生まれたものと考えられます。だとすれば、文法形式は、それぞれのストーリーを持っている。文法形式の数だけドラマがあるということになりますね。「ゆる言語学ラジオ」で定期的に取り上げられている辞書の編纂や言語学者の人生、業績。そういったものに心震わせるドラマがあることはもちろんですが、文法にもあっと驚くドラマがある!

それ自体が大きなスケールと魅力を持った文法のドラマ。だったら、小細工しないでストレートにそれを伝えればいいじゃん。そう思う方がいるかもしれません。正直、僕もそう思います。ですが、文法形式を擬人化・キャラ化して、ストーリーをより面白く伝えることで、ことばにあまり興味がなかった人達を惹きつけることができたら。そんなことを夢想します。戦艦、競走馬など、最近はゲームやアニメで色々なものが擬人化され、今までそのジャンルに馴染みがなかった人達にも人気を博していますね(都道府県を方言男子に擬人化した本なんかもあるようです)。『せいすうたん』という本をご存じでしょうか。擬人化された整数達による不思議の国の冒険譚で、『数学セミナー』に連載されていたマンガに解説を付けて単行本化したものです。これを見て、擬人化された助動詞達が冒険する作品なんて面白そうだなと思いました。『じょどうしたん』、いかがでしょう?(笑)いっそ、助詞達も仲間に加えて…それこそ『助助の奇妙な冒険』ですね。(結局それかい!)

看板倒れ? んなこたぁない

さて、「カタルシス方言文法」と銘打って始めたにもかかわらず、方言の話が出てこないまま、第1回が終わってしまいました。「どうなってるんだ」というお叱りの声も聞こえてきそうですが。安心してください、織り込み済みですよ(笑)。

今回、あえて方言の話をしなかったのには、二つの理由があります。一つは、基本となるテンス・アスペクトの「た」について、時間をかけて丁寧に説明しておきたかったということ。それによって、モダリティの「た」についてもうまく理解していただけると考えます。

もう一つは、東北方言の話を途中で切らず、一回でまとめてしたかったということ。それによって、理解がしやすくなるのはもちろんのこと、後編に畳みかけるような展開を作ることができる。よく言いますよね。「主役は遅れてやって来る!」

それもこれも、皆さんにより大きなカタルシスを味わっていただくため。過去回に残された伏線、今回新たに張り巡らした伏線、全部まとめて回収します! 怒涛の伏線回収にご期待ください。「た」の意味は大河ドラマ、そう言いました。後編では、さらなるドラマがあなたを待っています。

次回【カタルシス方言文法】「スペシャリスト現る」。震えて待てッ!!

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