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彼方へ


それはなんの前触れもなくあらわれた。


脳出血で手術を受けたその人は。人工呼吸器につながれて静かに眠っている。


わたしがその人を受け持ったのは手術を受けてから数日経ったころで。


状態は悪いながらにも安定しているように見えた。


突如血圧が下がりはじめ。60、40、30、20と瞬く間に下がっていく。医師を呼び、家族を呼ぶ。


電話で状態を伝えられた家族の声がこわばるのが分かる。

蘇生処置はしないことになっている。


しばらくして。心電図の波形は平らになる。けたたましく鳴り続けるアラームはもはや意味をなさない。


その人に初めて会った1時間で。血圧は2とか3とかになってしまい。そしてそれは生きるための数値ではなくただ血液の重さによる圧力を示しているにすぎない。


電子カルテからメモしたその人の情報を見つめながら。その人がどういう人であったのか思いを巡らせるものの。発症の経緯と救急車で来院してからのことしか分からない。


どこで生まれ。どんな子ども時代だったのか。どんな恋愛をして。どんな結婚生活を送ってきたのか。育児で悲喜交々な経験したであろう。立派になった子どもたちとどんな関係性なのか。長い闘病での本人と家族の悩み、そしてどんな思いで過ごしてきたのか。


何も。何も分からないまま。




人生の最後の瞬間に立ち会い看取るのが。この人に関してこんなにも無知な者であって良いのだろうか。


いま横たわるこの人の魂は。どんな思いで我々を見ているのだろうか。

人が産声を上げるときは。多くの人に囲まれ喜びと幸せなひと時となることがほとんどだ。


しかし。人が亡くなる時というのは大抵孤独であり。家族が間に合わないまま息を引き取ることが本当に多く、その人を知らぬ医療者が最後を看取ることがほとんどのように思う。


それはあたかも最後のひとときを見ないで済むようにとの。苦痛から逃れた穏やかな表情で家族に会いたい迎えたいとの。その人の家族への優しさや思いやりであるかのように見える。


そんな優しさと。そして我らが知らぬその人の長い人生の営みに想いを馳せながら。


せめて。礼を尽くして綺麗にして送り出したいと思う。


どんな人かは分からないけれども。家族がその人を見つめる目と流れる涙が。その人の人となりを表していると感じる。


家族にそこまでの想いを抱かせる、その人の存在に敬意を払いながら。


でもやはり。その人について無知なる我々が人生の終焉を看取る者で良いのだろうか。そんな拭いきれない想いを抱えながら。


陽が落ち闇の帷が漂い始めた街へと滑り出して行く、その人を乗せた車を。見えなくなるまで見送った。




だて。




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