対童磨戦 「鬼滅の刃」考察 

鬼滅の刃 考察 上弦の弐 童磨戦 Ver.2.0


 5月19日は「鬼滅の刃」栗花落カナヲの誕生日、ということで、彼女が最も活躍した上弦の弐 童磨との戦いについて考えてみましょう。当然ネタバレ全開ですから、今更ではありますがそのつもりで御願いします。


以下、ネタバレ含みます。




感情の無い鬼 童磨と、喪失した感情を取り戻しつつあるカナヲ


 カナヲが童磨のいる部屋に到達したとき、童磨はカナヲの師である胡蝶しのぶを殺し吸収している最中でした。師範とも姉とも敬愛するしのぶの死に、カナヲは激しい怒りを覚えます。

 ここまで「鬼滅の刃」を読んできた読者には当然分かっていることですが、カナヲは元々は感情を一切見せない子でした。それは幼少の頃、親からの激しい暴力にさらされ、うっかり泣き声をあげたりすればさらなる暴力で命を落としかねない状況にあったからです。そのためカナヲは一切の感情を表出することを止めてしまい、胡蝶カナエが亡くなったときも涙すら出ないという状態でした。カナヲのそんな心は炭治郎との出会いによって変化していくわけですが、童磨との遭遇そして胡蝶しのぶの死によってカナヲはついに怒りと憎悪という感情を発露します。最後の壁を破ったのが、慕う人の死への怒りと憎悪というのが切ないですが、恋愛漫画では無くバトル漫画なので、それは仕方が無いかな・・・。

 一方で童磨は感情というものを持ち合わせない鬼・・・というか人です。童磨が感情を持たないのは人間時代からの性質であり、鬼として得た能力とは無関係です。新興宗教の教祖でありながら信者の言葉に全く感情を動かされることは無く、親の死にも自称親友の猗窩座の死にも何も感じない。特に他者への共感という視点は全く欠落しており、その点が「サイコパス」と評される所以ですね。このように童磨は先天的に感情を持たない一方で、カナヲは後天的に親からの虐待の結果として感情を失っています。そして炭治郎という存在によって感情を取り戻し始めたカナヲがここで感情を持たない童磨と戦う、という構図が童磨戦の一つのポイントになっています。

 対峙する童磨に対して「あなたには感情が無い」と(カナエやしのぶから聞いていたとはいえ)喝破するカナヲ。失っていた感情を怒りという形で取り戻したカナヲが感情を持たない童磨を嘲笑うかのように「貴方、何のために生まれてきたの?」と舌鋒鋭く迫るシーンはこの戦いの意味を鋭く描出しています。そしてカナヲの言葉に対し不快な表情をする童磨(快/不快という気持ちはあるようです)。おそらく童磨はカナヲの感情の不自然さ(取り戻しつつあるとはいえ)を見抜いていたでしょうが、むしろ自分に近い、感情の乏しい筈のカナヲに自分の無感情を指摘されるというのは、童磨としても不快を感じざるを得なかったのではないかと思います。「イヤ、お前も似たところ有るだろ?」と。

 そして二人は刃を交えますが、カナヲが怒りと憎悪という感情を取り戻し、それを原動力として戦ってもやはり上弦の弐の強さ、童磨には押され気味で、やがて刀すら奪われてしまいます。しかし、そこに飛び込んできたのが嘴平伊之助でした。失った感情を取り戻したカナヲと感情の無い童磨との戦いの中に、「鬼滅の刃」の主要登場人物の中でもっとも感情表現の激しい伊之助を入れてくる、という構成は実によく考えられていると思います。天井から飛び込んできて傷ついたカナヲを見、そしてカナヲの態度から胡蝶しのぶが童磨に殺されたことを悟ると伊之助は「咬み殺してやる、塵が」と彼らしくストレートに怒りを露わにし、一方それまでの童磨への怒りを伊之助に引き受けてもらったカナヲは冷静さを回復し、卓越した視力による観察眼や本来の冷静な判断力に胡蝶しのぶから授けられていた策を加えて、時には伊之助をリードしながら童磨との戦いを続けることになります。


三人三様の「親」


 ここでの戦いに出てくる3名はいずれも親を失っていますが、その過程は三人三様で異なっています。一般に鬼殺隊の面々は親や家族を失っていますが、ほとんどが「鬼に殺された」というもので(胡蝶家はこれ)、これは鬼殺隊員が鬼に対して激しい憎悪を抱く原因となっています。それに対してここで戦っている三人が親を失った過程というのは、カナヲは人買いに売られて親に捨てられ、伊之助は自分の命を守るために母親から川に投げられ(残った母は身代わりのように童磨に殺されますが、伊之助の記憶にはない)、そして童磨に至っては母親が父親を殺して自殺するという凄惨な展開の末に両親を失っています。このあたり、鬼に家族を殺されたというよりも複雑な設定にしたのは、もちろん作者の意図があってのことでしょう。そしてそれぞれの親を喪失する過程がその後の人生に大きな影響を及ぼしており、この三人の戦いはそういう過去のぶつかり合いであるとも言えます。カナヲと伊之助はお互い親に捨てられた過去がありますが、親に売り飛ばされるという愛情の欠片も無い捨てられ方をしたカナヲと、川に投げられたとはいえ、自らを犠牲にしても子どもに生き延びて欲しいという最大限の愛情を受けて母親と別れた伊之助という対比、そしてその容姿から神の子としてまつり上げられながら両親は性欲と嫉妬という煩悩のために滅んでしまい、そんな親を無感情に冷ややかに見つめていた童磨。これらの対比が三者の戦いの中でコントラストを描いていくという構成にする事で、師や母の仇討ちという物語の中により複雑な陰影を入れることに成功していると思います。童磨については鬼になるにあたって妓夫太郎/堕姫や猗窩座のように思わず同情してしまうような物語があるわけではありませんが、それでもこうした過去を知ることで童磨が持つ巨大な空虚さに身震いを覚えますし、そんな童磨に失った者たちへの怒りを元に立ち向かうカナヲや伊之助が何を相手にしているのか、思わず考えさせられます。


戦いの結末と各自それぞれの結末


 胡蝶しのぶの命を賭した毒の投与をきっかけに童磨の敗北によって戦いが終わり、カナヲはしのぶの髪飾りを探して涙します。彼女が家族の死を悼み悲しむという感情を取り戻し、人としての心を回復したことを示す描写です。一方、伊之助は勝利の快哉を叫ぼうとしながら戦いの疲労と傷からふらつき倒れ、その瞬間に母の記憶を甦らせます。そしてその時初めてこれまでの自分の強がりが自分の心の何に蓋をしていたのかに気が付くのです。伊之助の心にぽっかり空いていた「母の愛情を求める心」という穴。母に甘えたいという気持ちの一部は胡蝶しのぶに投影されていましたが、一方でその気持ちを軟弱と伊之助は無意識に感じていて、無闇矢鱈に強さを求めることでそこに蓋をしていたのだと。しかし母を想う心というのは実は弱さでは無く強さでした。それは家族を、仲間を守る原動力となり、強さになる。お山の大将として一人で生きてきた伊之助が、家族や仲間を守ろうとする心こそが腕力を比べるだけではない、真の強さだと知るのです。戦いの後、カナヲと二人で次に進む姿は、蝶屋敷では競い合う相手だったカナヲを伊之助が仲間として認め、対等な存在として一緒に行動するようになった事を表しているのかなと思います(それだけにその後カナヲにお尻を叩かれたのは堪えたでしょうが・・・)。

 そして童磨。戦いに敗れ頚を斬られてはじめて彼は人間たちが自分に立ち向かってきた原動力に気が付きます。それは人間が持つ親と子・友や仲間の間に存在する愛情でした。そしてその愛情こそが、喪失への怒りと憎しみとなり、また共に戦う仲間を守る力となる。死ぬまでそういう感情の存在を「愚かな人間の弱いところ」として否定してきた童磨ですが、敗れてはじめて人間の感情に基づくそういう力が自分を圧倒したことに気が付いたわけです。そもそも童磨は親からも信者からも、守られるべき子どもという愛情を注がれたことは無く、教祖・救済者というむしろ他者から頼られる存在として子どもにはふさわしくないやや歪んだ愛情を向けられていたとも考えられますし、本人も(表面だけのこととはいえ)それに応えるように振る舞ってきました。そして彼はそういった感情を一切排して生きてきましたが、一方で自分には無い人間のそういう心の動きにむしろ憧れていて、そこに彼が時折示す幼児性が残されているのかもしれません。そして生と死の狭間で胡蝶しのぶに再会した童磨は、オズの魔法使いのブリキのきこり宜しく「僕に心を頂戴」と言ってみるのですが、しのぶに真っ向からフラれて終了という結末を迎えることとなりました。親や信者からの歪んだ愛情に助長されたとはいえ、やはり童磨が他の人に対して行ってきた所業はそう簡単に許されるものでは無い、ということでしょう。地獄を経てその先、そんな童磨の心が救済されることがあるのか、考えさせられるところです。


 この場面、「親を失った者たち」の「それぞれの感情」をぶつけ合う戦いという構成は本当に素晴らしい。「鬼滅の刃」という物語が自分の心を捉えて放さないのには、そんなところにあるのだと思います。


追伸

 サイコパスかつ女性を貪り喰らうような鬼(絵柄は結構グロい)である童磨が読者に人気がある、というのは、童磨の持つこうした未成熟な精神性が上手いこと育って欲しい、そんな母性のような気持ちを刺激するからかな、なんて思ったりもします。

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