鬼滅の刃 考察 甘露寺蜜璃編 「聖なるもの」

 「鬼滅の刃」に出てくる九人の柱の中で、もっとも評価の難しい一人が「恋柱 甘露寺蜜璃」であろう。そもそも「恋柱」って?他の柱たちが、五行説や四大元素に通じそうな「水・炎・岩・風・霞」だったり、戦いのイメージに結びつきそうな「音・蛇・蟲」だったりするのに一人だけ「恋」という異質さ。そして柱合会議で(それまでの来歴からぼんやりと我関せずの時透無一郎を除いて)他の柱たちが炭治郎/禰豆子の処遇に喧々諤々(しかも斬首処刑派が多数)の中で、一人だけ他の柱たちにいちいち胸をときめかせているという描写。どう考えても「恋柱」というよりは「ちょっと‘変’柱?」という印象。その上隊服はお色気担当にしか見えず、こんなキャラが何故柱?という登場のしかたである。

 そして刀鍛冶の里でこの違和感はピークに達する。いきなりの入浴シーン・乳房の零れ出そうな浴衣姿・炭治郎の鼻血ブー、まあ少年誌お約束のお色気シーンだなぁ、あ〜、やっぱりそういう担当なのか・・・。更にコロコロ変わる落ち着かない言動と常軌を逸した食べっぷり。挙句に鬼殺隊入隊の動機は「添い遂げる殿方を見つけるためなの」。この時の炭治郎の口あんぐりの反応は、読者そのものの反応と言っていい。いや、なんで彼女は柱としてこの物語に存在するの???

 しかし、上弦の鬼の来襲によって状況は一変する。それまでに何度も「天才」と称されてきた時透無一郎が強いのは当然として、遅ればせながら里の危機に駆けつけた甘露寺蜜璃が玉壺の使い魔たちをアッサリと切り捨てていく場面、「見た目可愛いから忘れてるけど、強いんだよな、柱って」まさにその通り。そして巡る走馬灯の中で、彼女が何を背負って戦っているのかが明らかとなる。常人とは異なる肉体を持つ彼女が自分に素直に生きられる場所、それが鬼殺隊だった。

 そう、彼女は「自分に素直」なのである。コロコロ変わる表情も、それはその時々の自分の感情に素直なだけ。それはかつて自分を偽って生きようとしたことに対するアンチテーゼなのかもしれない。感情も食欲も隠す必要の無い鬼殺隊という場所。ここでは彼女は自分を偽る必要は無く、最大限自分を肯定して生きていくことができ、だから彼女はそんな自分の大切な居場所を守るために戦うのである。

 柱に限らず鬼殺隊の隊員たちはたいてい鬼に家族や大事な人を殺され、その報復のために入隊し自らを鍛えて鬼と戦っている、というエピソードを持つ者が多い。そんな中で甘露寺蜜璃だけが誰も殺さず殺されずに鬼殺隊に入隊している。そのあたりのエピソード(どうやって彼女が鬼殺隊の存在を知り、入隊し、煉獄さんの継子となっていったのか)も知りたいとは思うが、それは別の物語になるので今回は考えない。ただ、こういう点からも甘露寺蜜璃の特異性というものが際立っている。そして、こういうことが分かってきたときに初めて、彼女が柱合会議で炭治郎/禰豆子の処刑に積極的に与しなかったこと、刀鍛冶の里で鬼の禰豆子に優しく接することが出来たのか、その理由が垣間見えてくる。

 鬼殺隊は鬼への憎悪と報復心に満ちた異常者の集団だ、と言ったのは鬼舞辻無惨だが、たしかにそういう一面があることは否定できない。那田蜘蛛山での胡蝶しのぶの言動や遺された累の衣服を踏みつけにする冨岡義勇の態度、柱合会議でいきなり禰豆子を刺す不死川実弥などを見ても、柱を代表とする鬼殺隊員たちの「ちょっとまともに見えない」というシーンは幾つもある。そんな中で最初は「変」に見えていた甘露寺蜜璃が実は一番普通だったということに、話を読み進むにつれて読者はだんだん気づかされるのである。斬首を主張する柱たちが多数を占める中で「えぇぇ… こんな可愛い子を殺してしまうなんて、胸が痛むわ 苦しいわ」と炭治郎を思いやる優しさを見せ、一方で「お館様がこのことをご存知ないとは思えないんですけど」と極めて常識的な意見を述べてもいる。

 甘露寺蜜璃はおそらく進歩的な良家の子女である。誕生地の設定や大正時代に洋風の食べ物を好んでいることなどから、作者にそういう意図があることは明らかと思われる。たしかに常人離れした肉体の持ち主ではあるが、それによって親や兄弟姉妹から疎外されたという描写は無く、家族からは十分に愛情を注いでもらいまた自分自身も家族に深い愛情をもって成長した。そしてその家族を鬼によって奪われることも無かった。この生育歴が彼女の優しく素直で純粋な心持ちに繋がっていることは間違いないであろう。そんな自己肯定感に満ちた彼女が生まれて初めて自分を否定された(それもこっぴどく)のが、17歳の見合いのエピソードである。ここでそれまでの自分を否定された甘露寺蜜璃は苦悩し、そしてその悩みから彼女を解き放ってくれたのが産屋敷耀哉の言葉だった。こうして鬼殺隊に自分の居場所を見つけ、それまで自分を悩ませていた肉体が鬼狩りの剣士に極めて適した才能であることを知り、煉獄杏寿郎に導かれて柱へと上り詰めていくことになる(この時、師となるには煉獄杏寿郎のまっすぐでブレない心が素直な彼女にはピッタリだったと思える)。

 そして彼女の強さはその肉体だけにあるわけでは無い。平塚らいてうが「元始、女性は太陽であった」と記した翌年から大正時代は始まるが、そんな時代に自分の心に素直に生き恋しそして死んだ彼女の生き様は画期的と言っても良い。もちろん「鬼滅の刃」はフィクションであり甘露寺蜜璃という女性が実在したわけでは無いが、17歳で見合いをする(おそらく風体からは相手の男性も良家の子弟であろう)という設定からは、もし彼女が特別な肉体を持たず普通の女性として生まれていたなら、17歳で親の言うなりの相手と見合いをして結婚しその後は「良妻賢母」としてつつましく生活していく、この時代に沿った人生を送ったであろうと想像される。また、一度は試みたように肉体の秘密と髪の色を隠して生きていく人生を選ぶ道もあった。しかし、彼女は「それでいいの?」と自分に問いかけ、そうではない、鬼殺隊という道を選んだ。その選択に彼女の家族がどのような反応を示したのか作中では描かれていないが、同時代を生きた平塚らいてうや与謝野晶子らに対する当時の世間の反応を鑑みれば、甘露寺蜜璃の生き方にも相当な批判が起こりうる時代であったろう。その時代に「自分の心のままに生きる」道を吾峠先生は甘露寺蜜璃に敢えて選択させた。お色気担当要員のように見えて、あるいはちょっとアホの子に思えるような言動をさせながらも、彼女にそういう強さを与えたというところに作者の女性の生き方に対する強い想いを感じることが出来る。そして甘露寺蜜璃が持つ素直さ・純粋さ・他者への優しさというのは、一見愚かに見えても実は無垢なる者が聖なる者であるとする、そんなモチーフにも通じるように感じられるのだ。たとえ下級隊士でも自分が助けられれば「みんな、ありがとお〜、柱なのにヘマしちゃってごめんねぇぇ!」と感謝し自省できる純な心(ここはたぶんに登場時の時透無一郎との対比にもなっている)。そして勝利した後には「うわあああ、勝った勝ったぁ、みんなで勝ったよ、凄いよおお!」となんの衒いも無く喜ぶ姿。そんな彼女に救われるのはかの柱一人だけでは無い、読者もまた「鬼滅の刃」という凄惨な物語の一服の清涼剤として、甘露寺蜜璃に救われるのである。

 刀鍛冶の里編が始まれば、入浴シーンがけしからん、おっぱいを強調する隊服のデザインが男に媚びている(ゲスメガネこと前田まさおの存在は、そんな批判への作者なりの返答かもしれないが)などの批判は出るかもしれないが、しかしそういう所に目を奪われるのでは無く、大正時代の女性キャラに「自分の心のままに生きよう」と決心しそれを守るために命をも投げうつ覚悟と強さを持たせると同時に「甘露寺蜜璃は竈門兄妹を応援しているよー」と素直に声を掛けられる透き通る心も持たせた作者の想いというものを、見た人には是非感じて欲しいと思う。

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