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2019.1.4(金) 仕事始めと欲望会議「超」ポリコレ宣言

昨日は仕事始めのはずでしたが、まだまだ体調が全快せずにほとんど仕事になりませんでした。
半分以上寝てた……
完全裁量労働制ですが、どこかで帳尻を合わせなければ。
本格的な仕事始めは月曜からになりそうです。

それで、昼間に寝すぎて夜になって眠れなくなってしまったので、気になっていた『欲望会議「超」ポリコレ宣言』という本を一気読み。

この本は、哲学者の千葉雅也さん、AV監督の二村ヒトシさん、彫刻家の柴田英里さんの3人による鼎談を書籍化したものです。
タイトルにある「欲望会議」の「欲望」とは、端的に「性的欲望」のことです。
食欲とか所有欲とかそういうものではなく。
性に関する、現代的な事象について様々な議論が交わされます。
ポルノ表現、ジェンダー、フェミニズム、LGBT、ペドフィリアなど、普段表立ってあまり議論されない問題について、ゲイ、ポルノ制作者、フェミニスト論者というそれぞれの当事者という立場も含めてガチで議論されているのが、実に面白かったです。
ちなみに、千葉雅也さんはTwitterでカミングアウトされていますが、ゲイの当事者です。

この本に興味を持った理由のひとつは、千葉雅也さんと二村ヒトシさんに興味があったから。
千葉雅也さんは「勉強の哲学」などの本やTwitterの発言が興味深いものがあり、共感が持てるということで、國分功一郎さんと並んで気にしている哲学者です。
二村ヒトシさんのAV作品は見たことないんですが、「すべてはモテるためである」やトークイベントでの話を聞いて、愛と性愛についての見識はすごいし面白い人だなあと思っていたからですね。

もうひとつの理由は、最近僕が持っている問題意識についての議論だったから。
その問題意識というのは、本書の序文から引用すると下記のようなことになります。

美味しいものを食べたいとか、流行りの服が欲しいとか、もっとお金を稼ぎたいとか、人間はいくつもの欲望に駆り立てられて生きていますが、なかでも性的欲望は、自分のアイデンティティ、あるいは主体性にとって特別なものだと言えるでしょう。
(中略)
以下に読まれるディスカッションでは、大きく言って、「現代の我々はどのような主体であるのか」という大きな問題を、性(ジェンダー、セクシュアリティ)の観点から考察しています。
本書では、性に関するさまざまな現代的事象を取り上げています。(中略)そうした事象は、現代的な主体性とはどういうものなのかを示唆しており、そして現代人は、かつての、つまり二〇世紀までの人間から、何か深いレベルでの変化を遂げつつあるのではないか、というのが本書の仮説なのです。
我々には齟齬もありますが、共通に問題にしているのは、「積極的に」生きるとはどういうことか、です。欲望とは、積極性です。積極性とは、言い換えれば「肯定」です。欲望とは、肯定することです。肯定的生、肯定的性。それはしかし、逆説的に思えるかもしれませんが、何らかの「否定性」としぶとく付き合い続けることを含意しているのです。一切の否定性を退けて、ただただポジティブに生きようとするのではなく、「何らかの意味で、否定性を肯定すること」が必要なのではないかというのが、三人に共通するスタンスなのです。
現代における主体性の大きな問題は、否定性の排除、否定なき肯定であり、そしてそれは、グローバル資本主義の本格化とおそらく関係しています。そしてその状況は、後に論じられることになりますが、葛藤が展開する場としての「無意識」がしだいに消滅していく、という事態としても捉えることができると思われるのです。

僕だって、こういうことをちゃんと言語化して問題意識として持ててるわけではなくて、いろいろなところから入ってくる情報を見聞きしていて、何だか引っ掛かりを感じたり、モヤモヤするものを抱えていたりしているだけなのだけれど、それをこう論理立てて言語化できる人の能力ってすごいなと常々思うし、自分もそういう風に言語化できるようになりたいと思っているのです。
それができるようになるための、アウトプットだったりもするんですけど。

細かい議論については、参考図書も参照しながら読み深めていきたいところで、一度は本の読み潰しをしてみなければならないだろうと思っています。
なので、ここでは初読での全体的な感想を。

ここしばらくTwitterのタイムラインを眺めていて疑問に思うのは、どうしてこんなに怒っている人が多いのかということ。
自分が直接傷ついたり、不利益や被害を被ったわけでもないのに、寄ってたかって怒って、攻撃して、自分の見えるところから消し去ろうとするのか?
傷ついている人がいるかもしれない? いやいや、あなた自身が傷ついたわけでも、友達や家族が実際に傷ついたわけでもないんでしょう? あなたの想像の中の誰かが傷ついたんですか?

それは結局、怒るために怒っているから、というのが答えで、二村さんによれば、「怒りにとらわれることはオーガズム」であり、柴田さんは「怒ることが快楽であることを認められないからがんじがらめになっている」と言います。
つまり、被害者として、あるいは被害者の代理人として怒ることで実は快楽を得ているということを認めてしまうと、純粋に無垢な被害者として正義の側にいることはできなくなってしまうから、そのことに向き合うことができずに、怒りに快楽を感じているということを認められないまま、怒りの快楽に溺れて、怒りの永久機関となってしまうわけです。
この辺り、とても納得します。

あと、それに関連した疑問は、怒りの対象をよく知りもしないまま、表面だけ、またはまた聞きの二次情報で、炎上させて潰そうとする人たちのこと。
よくもまあ、知りもしないことについて恥ずかしげもなく怒れるなと。
柴田さんが言っているけど、「怒る人って、羞恥心がないんですか。」

自分がよくわかってないということを、よく簡単にさらけ出せますね、ということなんだけど。
それと最近の傾向として、芸術や文学などでよくわからないもの、解釈が様々にできるもの、違和感や不快感を意図的に与えようとするもの、そういうものを悪として排斥しようとしているように感じます。
その作品がわからないのは、わからない自分が悪いのではない、自分にわかるように作らない作者が悪いのだ理論ですね。
そんな風にして、理性で理解できず割り切れない、無意識や感覚、メタファーや解釈の多様性を排除していくということは、文化の後退でしかなく、どんどんつまらない世界になっていくだけだと思うんですが、どうですか?

本の最後で千葉さんはこの現象を「無意識が奪われた状態」だと言います。

千葉 いまや、無意識を持っているのは「特権階級」なのかもしれない。無意識というのは余りであり、動物的にただ生き残るために生きていたら、無意識は要らない。邪魔です。(中略)
僕としては、その状況は、グローバル資本主義によって、「無意識が奪われていっている」状況なのだ、とネガティブに捉えています。
(中略)
二村 誰にも共感されえない固有の秘密や無意識を、人間は持つ必要がある。
柴田 それが「もっと引きこもれ」ということですよ。

無意識がない人間なんて人間らしくないと僕は思うけれど、冒頭にあるように、人間が本質的に変わっていっている過程で別の「人間」になりつつあるのかもしれないとも思う。
僕はそんな「人間」は嫌だけど。

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