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幸せであることが大事だとして

大学時代、いろんなひと達と「どう生きるか」という議論をしていました。とても青臭くて緩い議論が多かったのは間違いないけれど、みんな真面目に悩んでいました。たくさんのお酒が涙となり流れていく、青春の亜種。

そんな中で、よく見かけたのは「自分の幸せをこそ追求しよう」という享楽的な考えと「自分だけではいけないはずだ」という一種の正義感のようなものを持とうとする派閥の差異です。衝突までいかなくても、摩擦はあった。

前者は自分の幸せが中心にあって、後者は自分ではない何かを中心に置くことを重視する。ここでの「自分ではない何か」というのは社会であったり道徳であったり。けっこう人それぞれだったと記憶しています。

学生にとって「自分」の解像度に比すると「自分ではない何か」の解像度は低く曖昧で、「自分の幸せをこそ追求しよう」が優勢だったような気がする。楽しければいいよね的な。僕自身そっちに傾倒しがちだったからかな。

責任感が強いひとたちや、本をたくさん読んでちゃんと勉強していたひとたちは後者と親和性があったイメージがあります。僕はそういう考え方について、まあそりゃ大事なんだろうけどさ、むずいよね程度の感覚でした。

まあ普通に考えてどちらが正しいという種類の議論ではなくて、この矛盾をいかに自分で解消するか、社会とどう付き合わせるか、というのが人生なんだなあというところですが。そこには大きく複雑なグラデーションがある。


「自分の幸せをこそ追求しよう」という享楽性を優先しがちな自分にあっては、目指すべきなのは「自分の幸せを追求したら他者も幸せになっているという自分を育てること」ではなかろうか。そんなことも考えたりしました。

僕はわりと人間を高く買っていて、目の前で苦しんでいるひとがいたら、幸せな状態にはなりづらいと思っています。だから、「自分の幸せをこそ追求しよう」という考えには一定の利他を行う動機が存在しうる。

でも、人間はバカなので目の前でなければ苦しんでいるひとたちを放置しがち。なんなら、見えないところに運び出すことをカンタンにしたりする。利他を行う動機が存在しうるけれども、それを信じていると痛い目にあう。

なのでまあ、目の前というものの潜在的な範囲が広がってしまった以上「自分の幸せをこそ追求しよう」という人間は、わりと世界の隅々に目を向けなければ十分な幸せを得られない可能性をはらむに至る。

なので、それでも「自分の幸せをこそ追求しよう」というシンプルな行動原理を持ちたければ、わりとちゃんとした幸せのモノサシを手に入れなければいけない。これは、結構ちゃんと努力がいる話で、そこそこ大変。

「この幸せは、"善い"幸せだな」という感覚を信じられる状態まで、自分の幸せに関する感性やそれを取り巻く知性を鍛え上げていく。幸せを追求したら他者も幸せになっている、そんな自分になれれば最高。


まあ現実には"目の前"の認識が揃わなすぎるし、なんなら"目の前"を狭める技術を高めることこそが幸せの秘訣だ!みたいな話になりがち。飛行機でツインタワーに突っ込んだあの人たちは最後の瞬間まで幸せだったはずではないか、とかも考えてしまう。

この辺はきっとアレテーがどうとか言ってた2000年以上前の人たちから受け継がれてガッツリどこかの誰かが考察しているのだろうから、一度ちゃんと学んでみたい。特に最近は世界がなんかハチャメチャな印象だから、なおさら気になる話だったりもします。

最終的には自分側から考えるにしろ、それ以外の側から考えるにしろ、うまいこと両者を溶け合わせることで、自由だったり幸せだったりが得られるのだろうなあと思ったりします。七十而従心所欲、不踰矩とかはそういう境地なんではないか。


別にいつもこういったことを考えているわけではないのだけれど、たまにこういう面倒くさいことを考える癖がある。こういう無駄な思考それ自体で得られるものが"善い"幸せかは分からないけれど、楽しくはあります。

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