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地獄への道を舗装するのが善意なら

善意を持つひとの方が、悪意を持つひとよりも圧倒的に多い。僕はそう考えています。一方で、悪意を持つひとが起こしたことよりも、善意を持つひとが起こしたことの方が、圧倒的に世界に苦しみを与えている。そんな風にも考えています。

人間社会は悪意に対して意外と厳しいので、悪意を持つ人よりも善意を持つひとの方が影響力を持つことが多い。地獄への道は善意で舗装されている、というやつです。善意(正義・道徳)が苦しみへとつながった事例は歴史を見れば枚挙にいとまがありません。

そしてさらに言えば、苦しみのもとは、悪意や善意と無関係な、無意識的に処理が要因となることがもっと多いようにも感じています。日常を送るなかで、感情や自覚とは無関係に、ただ生きているという時間が人間には多い。その時間に、他者への苦痛が生み出される。

悪意の存在を否定するものではありません。善意の効力を否定するものでもありません。意識的な活動による影響も否定していません。ただ、世界には善意の方が多いし、善意が悪い結果を生み出すことが多いし、悪い結果は無意識に導かれることが多いよね、という話。

地獄が目の前に広がった時、存在しないだろう「悪意を持つ犯人」を探すよりも、背後に隠れていた善意を信じて行動する方がいい。その時、ただ善行であるということに満足してはいけないし、無意識的に処理されていることを意識の下に引きずり出す必要もある。

温度が上がると、地獄はもうすべてを燃やすしかなくなっていく。だから、破滅の香りを嗅いだらそういう面倒なことにすぐ手を付けないといけない。あいつらは悪だという思考に逃げなくても済むような、余裕を維持することが大前提になるので難しいけれど。

失敗も多いけど、人類これまでよく頑張ってきたな、と思います。天下国家ではなくて、日常でも。善行を疑いつつも、善意を信じていく。

頑張らないとねえ。

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