最終話「終点」下

「どうしたんだ?」
「いや、何でもないよ」

 大樹の言葉に返事をして、軽くため息を吐いて彼は続ける。

「青年は相談者の様子をすぐに理解した。自分には彼を説得出来ないってね。だから青年は年上の友人に依頼したんだ。僕にはどうすることも出来ないから相談に乗ってあげてって。すると、相談者はすぐに納得して万事解決。青年の友人は見事に相談者を救ったんだ」

 彼は腕を上げて、目に見えない風を手で掬い取ろうとした。偶然、風で流れてきた木の葉が一枚、彼の手に掴まれ、指先でその木の葉をくるくると回転させる。

「その後青年はどうしたんだ?」

 興味をそそられたのか、大樹の声音は少しだけ高くなっていた。
 指先でくるくると回していた木の葉を風に返して、彼は大樹の声に答えた。

「青年はやっぱりって、ちょっと誇らしげで悲しそうにしていたかな。それと同時にすごく落ち込んでいたのをよく憶えているよ」
「どうして落ち込むんだ?」
「それはね……まぁ、色々とあったみたいだよ」
「納得いく結果だっただろう。相談者の友達は救われたんだろう?」
「…………うん。確かに結果だけ見れば納得のいく結果だった。相談者は救われたんだからそれで良かった。でも、過程……、道筋が青年の思っていたものと違うんだよ」
「どういうことだ?」

 彼は右手の人差し指を立てて見せた。

「青年が出した答えと友人の答えは一緒だった。でも、相談者を救ったのは、結果的に友人だった」

 右手の人差し指を下ろして、今度は左手の人差し指を立てて見せた。
 大樹は悩んでいるのか、怪訝そうな低い声で唸る。

「どちらも同じことだろう。話が見えないんだが、分かりやすく教えてくれ」

 彼は大樹の問いかけに対して一言謝りを入れると、少し呆れたような雰囲気で大樹へと問い返した。

「君は青年が相談者を救ったと思うかい?」
「ああ、当然だ。青年が居なければ解決しなかっただろう。それに友人と答えが一緒ならば尚更青年が救ったということになる」
「そう、確かにそうなんだ。だけどね、人間はその過程をすぐに見失う。青年に救われたはずの相談者は、青年の友人に救われたと認識したんだ。青年はそれ以来、人を救うことに抵抗を感じ始めてしまった、違和感を持ってしまった。自分が誰かを救わなくても誰かが助ける。自分という存在はただの土台にしか過ぎないのかもしれないってね」

 悲しげに言う彼の言葉に、大樹は少し間を置いた。
 ゆっくりと流れていた風は止み、辺りはしんと静まり返った。

「……可哀想だな」
「え?」

 遠くを見据えるような彼の目が少しだけ見開かれる。

「可哀想だと言ったんだ」
「なぜ?」
「だってそうだろう。居たはずなのに居ない。自分はここに居るのに、居ない扱いをされているようなものだ。その苦しみはなんとなく、解る気がする」

 彼は固まっていた体を少し持ち上げて周りを見渡した。

「……ああ、そうか」

 彼は小さく呟き、再び根に頭を置いて一呼吸する。

「青年はね、それまで人を疑うことをしなかった。良い意味で純粋であり、悪い意味で単純だったからね。彼はそれ以来、人助けに抵抗を感じるようになってしまった。だけど、抵抗を感じながら行う善意は既に善意じゃないと青年は知っていた、理解していた」

「抵抗を感じながら行う善意?」
「善意っていうのは純粋な心でしか行えない。そこに疑いの心や損得の感情が混じれば、それはもう善意ではない。金銭的な感覚が伴う損得勘定。上手く言うなら感情的な金銭のやり取りが伴う損得感情、とでも言えばいいのかな。自分が行った行為に自信が無くなる、もしくは、その行いで自分へと恩が返ってくることを前提にしてしまえば、それはただの便利屋のような存在でしかないんだ。利己主義の混じった利他主義は心を汚してしまうんだよ」

「うむ……? それはダメなのか?」
「少なくとも、青年にとってはダメ……だったんじゃないかな」

「なぜだ?」
「元々、彼は人の笑顔が好きだった。喜ぶ顔を見るのが好きだったんだ。だから彼は誰に対しても無償の手助けをしていた。でもね、その一件以来、相手の喜ぶ顔を見ても、青年は心から素直に喜べなくなっていたんだ。『自分のしていることは無駄なんじゃないか』ってね。疑いの種が芽吹けばもうおしまいさ。後は全て下り坂、良いことも悪いことに変換されてしまって、綺麗な世界が汚れていくんだ」

 呆れ笑いをする彼の表情はやはり悲しそうだった。

「だが、それで助けられた人が居るのなら、青年の行為は無駄じゃないだろう」
「確かに、実際はそうだと思う。青年の行為は無駄じゃない。でも、どんな人がそうやって諭しても、青年の純粋な心が戻ってくることは無かった。人間は疑いを一度でも抱いてしまうと、もう二度と手放せなくなってしまうんだ」
「哀れな生き物だな」
「ふふっ、全くその通りだね…………」

 心地良い風が再び静かに流れ始める。

「…………」

 自分以外誰も居ない空間で緊張が切れたのか、彼は少しの間眠りについた。

 大樹は話しかけても返事をしない彼が死んでしまったのかと慌てたが、彼の寝息を聞いて一安心した。

 大樹は鳥たちに、彼が風邪を引かないように落ち葉を集めて欲しいとお願いをした。大樹もまた、自分の身体を振って彼へと掛ける葉を用意した。

 大きな枝葉が揺れては大量の木の葉が舞い散っていく。そうして時間は静かに流れていく。

 大樹は彼が起きるまでそっと静かに待っていた。周囲の木々に見つめられながら、大樹は彼を見守っていた。

 鳥たちは大樹のお願いを聞いた後、何処か遠くを目指して飛び去っていった。大樹は彼が眠ったことで、再び忘れていた孤独を思い出していた。

 独り独り、時間はゆっくりと進んでいく。

 自然と抜け落ちた葉が彼の鼻先に付くと、その感触に彼はハッとして目を開けた。

「あ……ごめんね、知らないうちに寝ていたみたいだ」
「気にしないでいい、寝たいときに寝るのが一番だからな」
「ふふっ、ありがとう」

 彼は自然と微笑んだ。
 優しい時間がゆっくりと流れていく。
 雲は風に流されてその模様を次々と変えていく。

 彼はなんだかほっとするような温かみを感じると、自分の身体に葉で作られた布団があることに気が付いた。

「これは君が?」
「ああ、鳥たちに頼んで掛けてもらった。風邪を引くと辛いのだろう」
「君も風邪を引くのかい?」
「風邪を引いたことはないが、鳥たちが時々苦しそうにしているから何事かと聞いてみれば、風邪を引いたと皆口々にしていた。動物は風邪を引くと辛いのだろう?」

 重低音の無機質な声は心配する声音ではないけれど、その声には確かに温かみが感じられた。

「君は優しいんだね」
「俺は優しいのか?」
「こうして風邪を引かないように木の葉を掛けてくれたんだろう?」
「当たり前のことをしただけだが、それが優しいになるのか?」
「その当たり前っていうのが、本当は一番難しいんだよ」

 意味深げに呟く彼の言葉の奥にある意味を大樹は知らない。
 彼はゆっくりと、丁寧に大樹に話しかけた。

「当たり前に出来ることが、実は一番難しいんだ。人間は相手を思いやる気持ちを持つことが出来る。相手の立場になって考えてみることが出来る。相手がして欲しいことを考えてみることが出来る。けれど、生き物であることに変わりはない。他の動物たちと変わりはない。だから、自分を一番に考えてしまう」
「ふむ……」
「今の世界はね、相手の事を考えている余裕なんて与えてはくれないんだ。自分が生きる事に必死だから。自分が最初に救われなければ意味が無いと感じてしまう世界だから……」
「外の世界はここよりも寂しそうな場所なのだな……」
「でもね、これが良いことでもなければ、別に悪いことでもないんだ。生きている限り、精神的に背負っている対価のようなものだから。でも、この生きる対価を無視して誰かの為に身を削ることが出来たなら、そこには本当の理想的な世界が待っているかもしれない。相手を気遣えるなんて、生き物の中でもほとんど存在しない特別な力なんだからね」
「……」

 彼の話に大樹は耳を傾けていた。
 そして聞き終わった後、大樹は純粋な質問を投げかけた。

「俺はつまり人間なのか?」

 率直な問いかけに彼は優しく、微笑みながら返事をする。

「人間より人間らしいかもしれないね」
「おお」

 大樹は嬉しかったのか、その身体を震わせた。風に揺れる大量の木の葉が宙を舞い、鮮やかな空との色合いは一つの絵画のように美しかった。

「俺も人間みたいにいつか歩けるようになるかな。ここから離れて色々な景色を見てみたい。世界がどんな風になっているのか見てみたいな」

 暫くの間、大樹は彼へと質問を投げかけた。こことは違う場所、海や湖、人間の住む町のことや世界がどんな形なのか。一度興味の湧いたその泉は収まることを知らずに溢れ続けた。
 数時間にも及ぶ質問攻め。知識を得た大樹は満足したのか、彼から聞いた世界のことを心に留めておくと、再び大きくその身体を揺らしていた。

「楽しそうだね」
「ああ、こんなに誰かと会話をしたのは初めてだからな。とても新鮮で楽しい」
「それは良かった」

 彼は一度立ち上がり木の葉を除けると、再びその木の葉を集めて簡易的なベッドのように形を作った。その上に寝転がり空を見上げる。

「ほう人間は器用だな」
「手があるからね、とても便利だよ」

 青年は片方の腕を枕にしながら、もう片方の手で大樹の体を撫でる。

「人間はなんでも出来ていいな」
「君には君にしか出来ないことがあるよ」
「俺にしか出来ないこと?」
「ああ、人間は鳥たちの羽休めの場所にはなれないし、たくさんの生き物たちの雨宿りする場所を提供することも出来ないからね」
「ふむ。そうか、俺も意外と役に立っているんだな」
「うん、十分に。いや、十二分にね」

 ふかふかのベッドが再び彼を眠気に誘うが、彼は少しの間じっと空を見つめて考えていた。
 遠くに見える積乱雲が、平面的だった視界の中で唯一立体感を目に映し出していた。

「……青年の話がもう一つあるんだけど聞くかい?」

 彼は大樹へと話しかけた。話を聞きたい大樹としてはありがたいことだが、何も提供せずに話を聞いていいのか、少し不安な様子だ。

「何もしていないのにいいのか?」
「布団を掛けてくれたから、そのお礼にってことでどうかな?」

 彼の提案に大樹は小さく唸りながら考えた。嫌そうな声ではなく、悩んでいるように聞こえるその声が鳴り止むまで、彼はゆっくりと待った。
 そよ風が大樹の小枝をかさかさと揺らしている。

「むう、そうか。なら、遠慮せず聴かせてもらおう」

 再び吹き始めた風がより強く木々を揺らし、彼の頬を撫でた。

「じゃあ、話をしようか。青年には相談者がもう一人居てね。病の少女を元気付けようとしたんだ。元気になる魔法の言葉を青年は少女に渡した。けど、少女はその言葉を投げ捨てた。そして、また青年に助けてとお願いをした。もう一度渡した言葉はまた壊されて、また少女は助けてとお願いをした」
「助けてと言った後、捨てたのにもう一度助けてとお願いをした、とはどういうことだ?」
「あはは……よく分からないよね」

 彼は頬をかきながら、何とも言えない表情を浮かべる。

「理解出来ないと思う、僕も聞いていて理解出来なかったんだから。でも青年は頑張った。もう一度言葉をあげて、捨てられて……。もう一度言葉をあげては破かれて。それでも青年は助けてと叫ぶ少女に言葉を渡し続けた」

 木漏れ日に手を伸ばして彼は沈黙した。
 手の甲をじっと見つめ、人差し指の付け根から手首まで続く裂傷の古傷が疼きだす。大樹は話し始めない彼を心配して声をかけた。

「どうしたんだ?」
「あ、ああ、ごめんね。何でもないよ」

 こほんと咳払いをして、上げていた手をおろし彼は続けた。手の甲に走る傷跡の事を大樹が気付くことはない。

「紡いだ言葉を捨てられるのは別に構わない。助けてと求めるのなら、何度でも言葉をあげる。そんな気持ちで青年は頑張った。でもある日、投げた言葉がとうとう青年に投げ返された。言葉は人を救うと同時に、人を傷付けて殺すことも出来る。少女の投げ返した言葉は刃になって、青年を傷付けた」

 急に風が強まると、彼のすぐ近くではつむじ風に木の葉が巻き込まれていった。吸い込まれるように、投げ出されるように木の葉が宙を舞っていく。

「それは、辛かっただろうな」
「うん、僕も、そう思うよ。それでね、青年は諦めてしまったんだ。この少女は時間が解決するしかないってね。結果、少女は誰に、いや違うな。何に救われたと思う?」
「うん? 時間だったんじゃないのか?」

 彼は鼻で笑い、あははと声に出して笑った。
 遠くに見えた積乱雲は知らないうちに視界から消え去り、彼らの頭上には曇天が広がり始めていた。

「どうして笑うんだ?」
「だって、少女を救ったのは、青年のあげた、青年が渡したはずの言葉だったからだよ」
「……? どういうことだ?」
「青年の言葉は正しかった。全て少女の為に紡いだ言葉だったんだから、それはとても優しい言葉だった。ただ、少女が青年の言葉を本人から聴くか、別の人から青年と同じ言葉を聴くかの違いだけだったんだよ」
「また、そうなってしまったのか」
「それからだよ、青年が救うということに対して、本当に意味を見出せなくなってしまったのは」

 彼はそう言うと、帽子で顔を覆った。

「どうしてだ?」
「自分の言葉では救えないという現実を二度も味わってしまった。心が、精神が傷付けられてしまった。自分が言わずとも、自分の紡いだ言葉を誰かが言えば、相談者は救われると結論付けてしまったんだよ。人間は自分で理解しようとしない限り、他人の言葉なんてまるで聞こえない。自分よりも格下だと決めつけている者の言葉は特に記憶に残らないし反骨精神よろしく言い返そうとしてしまう。青年には精神に見合った時間が足りなかったんだよ」

 ぐっと拳を握り締めた彼に大樹は端的に感想を述べる。

「ひどい話だ」

 率直に言い放った大樹の言葉に彼は微笑んだ。

「そう思ってくれるだけでも青年は嬉しいと思うよ」
「どうしてだ?」
「青年の言葉は誰にも届かなかった。青年の言葉が存在したという過程を、誰も憶えてはいないからね。覚えていたとしても起承転結の起しか覚えていない。だから、誰か一人でも、青年の想いを知る者が居るなら……、彼も嬉しいと思う」
「うん、ここに居る、青年が頑張ったということを知った俺が居るぞ」
「ははは、そうだね。青年も少しは救われるよ」

 言い終えると同時に彼は立ち上がり、体に付いた落ち葉をぱんぱんと叩き落とした。そして、ゆっくりと目尻に指を当てた。

「中々の寝心地だったよ、ありがとう」
「根を枕にされたのは初めてだったが、そう言ってもらえるなら嬉しいな」

 大樹の表面をよしよしと撫でる。
 独りでずっとここで過ごしてきた寂しさを思うと、彼は瞳に涙が溜まっていくのを感じて空を見上げた。
 曇天はゆっくりだが、勢いよく流れてい行く。

 彼は反転して次の目的地をどうしようか考えていた。

「なぁ、もし君が青年に出会うことがあれば伝えておいてくれないか?」

 ふとした大樹の呼びかけに彼は少し驚き、少しズレた帽子を直しながら彼は大樹の方を振り返る。

「何を伝えればいいのかな?」
「そうだな。君が救ってきた人たちは間違いなく君に救われたことに変わりはない。自信を失くす必要は何処にもない。誰にも出来ないであろう自分の行為に自信を持ってくれ。そして、君の心がいつか癒えますように。君の生き方は間違ってなんかいない、と」
「……あはは、そんなに覚えられるかな」

 彼は聞き終わる前にさっと向き直り、ぎゅっと深く帽子を被りなおして微笑を浮かべた。

「伝えられないか?」
「ううん、きっと……、必ず伝えておくよ」
「頼んだ」
「うん、それじゃあね、またどこかで会えたら」
「また話を聴かせに来てくれ」
「ふふっ、ああ、また来るよ。次は良い話を聴かせられるようにね。何時になるかは分からないけど、またきっとこの場所で」

 歩き出した彼は、大樹に背を向けたまま手を振る。

 見送るように、ひゅうと吹く風に乗った木の葉が、転がりながら彼の後ろを追っていく。

「見送りありがとうね。でも、ここまででいいよ」

 彼の言葉で吹いていた風はすっと消え、追いかける木の葉たちは立ち止まった。
 大樹から一番近いであろう木の下で、彼は後ろを振り返った。

 大樹に聞こえないように、震える唇を開き、弱々しくか細い声で彼は、
「ありがとう」
 と呟いた。

 大樹は木陰で佇む彼を視界から消えるまでじっと見つめ続けていた。
 ぽつぽつと降り出した雨が終わりと始まりを告げているような気がして。
 滴る雨水は若者の涙か青年の涙か。それとも大樹の流した涙なのか。


 風は止んでしまい、後にはしんしんと雨が降り続けるのみだった。

人を変えることはできないけれど、誰かの心に刺さるように、私はこれからも続けていきます。いつかこの道で前に進めるように。(_ _)