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【掌編小説】母の逆襲

 もう何もするなよ。玄関の鍵を開けるときに、思わずついて口をついて出たことばにぎょっとする。ゆっくりと開いたドアの向こうは暗闇だ。霧が晴れるように胸がすっとする。明かりがついていなくて当然だ。唯一の同居人だった母は、先月死んだのだから。急性心不全だった。
 仕事から家に帰るのが気が重かった。というよりも、恐怖だった。帰ると、母が、何かをしでかしていた。熱いフライパンをレジ袋の上に置いて溶かしたり、麦茶を畳にぶちまけたり、果てには、帰ると、玄関におれのラジカセや本が積み重なっていて、「泥棒が入った」とのたまった。おれをわざと困らせるためだ。おれにとって母がいつも世界の中心でいさせるための方策だ。母はそうやって幼い頃からおれを支配し続けてきた。
 だから、ある日、おれは爆発した。当然だろう。酒に酔って母の腰を蹴ったら、翌日から母は、歩けなくなった。母はおれに蹴られたと姉に訴えたが、おれは母が勝手に転んだと主張した。最近認知症が始まったみたいだ、と言うと姉は簡単に信じた。それ以来、急激に弱って、ほとんど寝たきりになった。世話が面倒になったが、もう、あれこれちょっかいを出してこなくなったのでその分少し楽になった。そして、ある日、突然死んだ。
 今日の夕食は、ぶりの刺身だ。この時間は刺身が安くなる。ゆったりとした気分でビールを飲みながらふと和室の方に目がいく。閉じられた襖の向こうで母のうめき声が聞こえた気がして心臓が跳ね上がる。母は、おれが家にいる間、わざと大きな声で、ああ腰が痛いとずっとうめき続けた。そしておれの意識は母という黒い汚物にいつも寝食されていた。けれども、もう、そんな生活とはおさらばなのだ。母は死んだのだ。もうこの世にいないのだ。おれは笑みを浮かべながら、二本目のビールを冷蔵庫から取り出す。
 その夜、夢を見た。恐ろしい夢だった。仕事から帰ると、なんと、母が、いた。腰を悪くしてから、もう長い間まともに立った姿など見たことがなかったのに、普通に台所にたって料理をしていた。そしておれをにらみつけた。「あんた、あたしを蹴っただろう」身の毛もよだつ恐ろしい顔だった。目が覚めると汗びっしょりだった。
 翌日の昼間、仕事をしていても、ふとした拍子で何度もその夢を思い出して、ぞっとした。その度に、だいじょうぶ、もう、母は死んだんだから。そう自分に言い聞かして平静を取り戻した。
 その夜、家に帰って、おれは愕然とした。明かりがついているのだ。おそるおそる足を踏み入れて、おれは叫びだしそうになった。いや、実際に小さく声を上げていた。母がいた。台所で料理をしていた。夢ではない。疑いようのない現実だ。
 母は、おれの方を見た。黒い空洞のような目で。その口が何か言いかけた瞬間、おれは、思い切り母の腰を蹴りつけていた。母は、ぶっ飛んで、にぶい音がした。奥の居間から人が出てくる気配がした。我に返ると、目の前に、姉夫婦が立っていた。ふたりとも呆然と真っ白い顔をしていた。おれの足元に頭から血を流して横たわっているのは、一度しか会ったことのないのでぼんやりとしか記憶に残っていない、姉の義母だった。

(了)

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