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新聞集金人

ハルヲは宙ぶらりんだった。世界のどこにもひっかかっていなかった。五年勤めた会社をやめたばかりだった。友達など一人もいなかった。友達がいたことが何度かあったが、気がつけばいつの間にか友達でなくなっているのだった。両親と姉がいたが、もう何年も会っていなかった。実家にいたころからハルヲは家族が嫌いだった。けれどもそうでないふりをしないと生きられないので、そうしていた。家族の誕生日には必ずプレゼントをあげたし、姉の結婚式には歌いたくない歌まで歌った。にもかかわらず、自分の誕生日は全員にスルーされているではないか。そのことにハルヲはある日突然気づいて家を出た。それ以来ハルヲは家族の誰とも会っていない。仕事だけが唯一ハルヲが世界に存在していることを証明するものだったが、その仕事もやりたくてやっていたわけでもなく、というか、いやでいやでしかたがなく、だからやめた。文房具の営業をやるのが夢だった人間などいるのだろうか。だから、今、現在、ハルヲは世界のどこにも所属していない。生きているのだけれども、どこにも存在しない。


だから、ハルヲは、月に一度、、新聞の集金人がやって来るのを楽しみにしていた。それはこどもみたいに小さな初老の女性だった。いつも小汚い格好をしていて髪はぼさぼさで針のような細い目に鼻だけがでかく醜い顔で初めて見たときは男だと思ったのだが実は女だった。一万円札を出すと、ぼろぼろのビニールのポーチのような中からわざとではないかと思えるほどぎこちないスローな動作でおつりを数えだし、ハルヲが実際におつりを手にするまで気の遠くなるような時間を要した。初めはいらいらしたのだが、そのうちに楽しくなってきて、彼女が来るのをこころまちにするようになった。彼女は、どう見ても世界における価値は自分よりも下だとハルヲはほくそ笑んだ。ハルヲは無職だが、おつりを数えるのにあんな時間はかからないし、服装も汚らしくはないし、あんなぶさいくでもないし、あんな年寄りでもない。あのおばはんはむろん結婚などしておらずお金を数えるのにあれほど時間がかかっているくらいだから職についてもすぐ首になり職を転々として結局新聞の集金人で口を糊しているにちがいない。むろん、家族などいるはずもなく、風呂もない汚いアパートで一人背を丸めてカップラーメンばかり食っているのだろう。彼女が帰ったあと、ハルヲは一人ほくそ笑むのだった。
とはいっても、ハルヲは無職だ。その点だけがハルヲがおばはんに劣っている点だ。それさえクリアすればハルヲはまた世界とひっかかることができ、かつ、おばはんに完全勝利ができるのだ。そう考えたハルヲは毎日求職活動にいそしんだが、結果はみごとなくらいぼろぼろで仕事が決まる片鱗すら見えない。


そんなある日、ハローワークからの帰り、疲れ切って休もうと入ったカフェで、ハルヲは目を疑った。すぐ前のテーブルに新聞集金のおばはんがいたのだ。はじめ、おばはんだとわからなかった。なぜなら、おばはんはにこやかに笑っていたからだ。いつもの小汚い服装ではなく、こぎれいなワンピースに身をつつみ、そして、驚くべきことに一人ではなかった。夫と思える恰幅のよい男性と、息子と思えるイケメンと、娘と思えるかわいいギャルとテーブルを囲んでにこやかに談笑していたのだ。買い物帰りらしく、周囲にはハルヲがめったに入ったことすらない高級デパートの紙袋がうづ高く積み上げられている。生活水準が高い雰囲気がぷんぷんと漂っている。そして、彼らからは、ハルヲが味わったことがなく、かつ、心の底で渇望していた暖かい家庭の雰囲気がいやというほど放出されていたのである。ハルヲがカフェを出ると、いつからそうなったのかわからないが、アパートに向かう道が急なのぼり坂になっていた。皆、すごい勢いでそこを上ったり降りたりしている。進めば進むほど坂は急になってきてボルダリングみたいに両手を使わねばのぼれなくなってきた。ついにはハルヲはずるずる坂をすべりおち、気づけばまたカフェの前に戻っていた。カフェでは集金のおばはんがまだ談笑していた。ハルヲがひっかかることのできる場所はやはり世界のどこにも存在しないのであった。(了)

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