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【小説】らせん階段(2 完結)

(1よりつづく)

 見えないようにバッグに手を入れてお札を数えた。パンケーキが来るまでのつもりだったが、五十枚数えてもパンケーキはまだ来ない。大学生風のカップルが入ってきてあたしの前のテーブルに座ったので数えるのをやめた。わくわくしてきた。こんなに気分がいいなんてまるであたしがあたしでないみたい。きっと、彼の部屋を出たところで、あたしは、これまでのあたしでなくなったのだ。だってこんな大金を手にしたことなど生まれて初めてなので、今までのあたしであるはずはない。だから、らせん階段も平気だったんだ。きっとこれからどんどん楽しいことがあるはずだ。スペシャルパンケーキなんて序の口だ。
 カウンターからトレイを持ったクルーが出てきたので、あたしかと思ったら、カップルの方に行った。いつもあたしが頼むモーニングセットだった。あたしは、ふっと不安になった。席についてからもうずいぶん時間がたっている。後から来た方が先に出てくるなんて、いくらスペシャルパンケーキでも時間がかかりすぎな気がする。不自然に見えないように控えめに首を伸ばしてカウンターの向こうをうかがう。店長っぽいおじさんと金髪女子が何か話している。奥の厨房はここからは見えないが、漂ってくる空気感から何かを作っているという雰囲気はうかがえない。ひょっとすると、注文を忘れられているのかもしれない。あたしにはよくそういうことがある。
 もう五分待って来なければ、言いに行こうとしたとき、また入り口のドアが開く気配がした。何気なく目をやった瞬間、胸が裂けそうなくらいどきついた。入ってきたのは二人の警官だった。一人は若くて背が高く、一人は小太りの初老だった。二人は、まっすぐにカウンターに向かって待ち構えていたように店長が応対した。きっとパトロール中に立ち寄ったのだろう。あたしは自分にそう言い聞かせた。最近この近くでコンビニ強盗があったらしいから注意喚起でもしにきたのだ。
 初老の方があたしを見た。とっさに顔を伏せてアイスコーヒーのストローをくわえるがもう氷しか残っていない。警官たちが話を打ち切って、こっちに歩いてきた。後ろには店長もいた。絶対にあたしを目指しているのではないと確信があった。だって、たとえ、彼がお金がなくなったことに気づき、あたしが犯人だと思ったにしても、彼はあたしの名前も住所も知らないのだから、アパートの近くのこのカフェにいるなんてことわかりっこないからだ。きっと前のカップルがなにかやったに違いない。男は、がさつそうで目つきが悪いし、女は、くちびるにピアスをして腕には変な模様のタトゥーを入れていて、夜中にコンビニの前で騒いでいるのはたいていこの手の人種だ。
 だから、あたしは、警官と店長があたしの前に立ち、若い方の警官があたしに、「ちょっと、よろしいですか」と声をかけてきたとき、それが現実だと認識することを意識が拒否してはじめのうち知らん顔をして13番のプレートを指先でいじっていた。そうしたら、次は店長が身をかがめてあたしの鼻先に顔を近づけて、あの、お客様、と言ったときはじめてそっちに顔を向けたとき、はじめて、若い方の警官の手に一万円札が握られているのが見えた。「さっき、レジで支払われたこのお札ですが、どういう経路で入手されましたか?」
「経路、って、なんですか?」
 あたしは、どうにかそれだけ答えて、必死でこの場を切り抜ける方法をぐるぐる探していた。
「その、何と言いますか。銀行でおろされたとか」
 警官は、そこまで言って、少しことばを探すように半分に折られた一万円札に目を落とし、「どなたかから受け取られたとか、そういうことです」
 あたしは、しばらく黙った。なんでだ。なんでバレたのだ。頭を支配するその疑問を必死で押しのけながら答えを探した。何て言えば一番いいのだろう。
「あの、おつりで」
「おつり?」
「そう、確か、どこの店か忘れましたが、おつりでもらったんだと、思います」
 警官のよく日焼けした顔がのっぺりと平面になった。後ろの初老の方が困ったような笑みを浮かべている。
「一万円札をおつりでもらうことなんて、ないと思いますが」
 パニックを起こしかけたあたしの脳が勝手にことばを吐き出した。
「違う、勘違いしてました。銀行からおろしたんです。さっきATMで」
 なんでこんな尋問を受けるのかはわからないが、物的証拠があるものに寄せていった方がいいと思って印字してあった銀行名を言った。
「なんで、こんなことを聞かれないといけないんですか?」
「おろされたのは一万円だけですか?」
 あたしの質問はないものみたいに無視された。もうあたしはすっかり気持ちが弱ってしまって。バッグから銀行の封筒を出した。
 年寄りの警官が封筒の中を見て、若い方にうなづいた。若い方があたしに札束を示しながら、
「すべて偽造紙幣ですね」
「ぎぞう?」
「ニセ札ですよ。しかもかなりちゃちい作りですね。あなた、これをATMでおろしたとおっしゃいましたが、本当ですか?。ATMには鑑別装置がありますから、入金する時点ではじかれますのでね。中から偽札が出てくることは、ありえないんですよ」
 あたしを見下ろす三人の顔が急にすぐ近くに迫って見えその向こうにカップルの二人の露骨な視線があたしを刺す。いつだったかこれとまったく同じ状況を経験したことがある。いや、何度も経験している。大勢で取り囲まれて冷たいことばの質問で責めたてられる。あたしをさらし首にしようとする人たちは、親だったり、先生だったり、バイト先の先輩だったり、クラスメイトだったりで、ついには警官がやってきた。そういう時は、はじめからあたしが全面的に悪いと決まっていて、何を言っても誰もあたしの言うことなどきいてはくれないのだ。
「もう一度おたずねします。この紙幣をどういう経路で入手されましたか?」
 少し面白がっていたようにも見えたカップルの目が露骨に嫌悪に染まっている。あたしがいつも彼らに向けている視線を今あたしは向けられている。ものすごいバイクの爆音がガラス窓を通してあたしの耳朶を裂いた。その音があたしの体の中を寄生虫みたいにかきまわした。ぐるぐると胸の奥が鳴った。らせん階段を駆け下りた際にやって来るはずの気持ちの悪さが今になって襲ってきた。変わったと思ったのはただの幻想で、もうあたしはすっかりもとのあたしに戻ってしまったのだ。とうに遠ざかったはずのバイクの爆音が集団でお経を唱えるみたいな声に変わっていつまでも耳の奥でぐるぐると渦を巻いていた。

(了)

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