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顔面溶けてあなたにもなれる

そういえば、又吉直樹さんが「人を好きになると、その人そのものになりたいと思う」と言っていた。そのものになりたいという願いは、大きさだけでいうと最上級に近い。はじめて聞いた時はいまいちピンと来なかったのだけど、軽重を問わなければ誰もがもっている感覚のようにいまは思う。

現実的には、わたしは「あなた」には成れないことはわかっているのだけど。だから、わたしたちはあなたの好きな音楽を聴いて、小説を読み、映画を観る。あなたを、あなたたらしめているものを共有することで、ほんのわずかでも魂の輪郭を近づけようとする。

木乃伊ミイラ』というタイトルの短歌連作がある。タイトルのとおり、ミイラがたくさん出てくる。ミイラ展から得たインスピレーションからつくられている。囲まれた時の感覚。作者が展覧会を進んでいくと、また次のミイラが現れる。

ミイラに引っ張られて、ゆっくりと思考の酔いが進んでいく。

鼻孔よりなずきひきずりだすときの恍として手は火照りのさなか

『ヘクタール/大森静佳』
(文藝春秋)

展覧会の空気に慣れて、作品世界に没入できるようになるまでの時間がある。脳が空気に酔ってくるまでの。ひとたび酔ってしまえば、全身で展覧会を楽しめる。頭の中に雑音が混じっていたところから、急に作品に引き込まれるようになる瞬間。この連作において、ギアがぐんと上がって、それまで以上に大きくのめりこむのは、上記の作品だと思った。

ここまでは、ミイラ展の鑑賞に留まっているのだけれど、この作品において視界がミイラのなかの時間によって揺らされている。作者はたぶんミイラを作ったことはない。が、眼の前で、いままさに脳を引き抜いたかのような書き振り。恍惚が手にあることもなるほどと思う。心や心臓だけではなくて、興奮が手の先まで満ちているという把握も圧力がある。

あるいは、みずからの手で自分の脳を引きずりだしているようにも読める。自分自身をミイラにしたがっているのではないか。脳をひきずりだすなんて、ほんとうに痛そうなのだが、恍。ミイラになることに快楽がともなっている。

〈顔の裏で顔のミイラが待っている 眉剃った夜は水を欲しがる〉という作品がある。昔の人が生きていた頃の面影が目の前にある。自分のこの体も、適切な処理をほどこせば、ミイラになれるらしい。ミイラになれる可能性を発見した短歌だと読んだ。水を欲しがる、という表現が生々しい。鏡に写っている顔は、少しだけミイラになってしまっているようだ。

夕闇のたががはずれてきれいだな顔面溶けてあなたにもなれる

〈夕闇の箍〜〉は、ミイラと自分の体の輪郭が溶け合ってしまうような短歌。さらにテンションが上がる。ショーケースにはいっているミイラと向かい合っているときにこの想像がもたらされたのではないか。透明なショーケースには自分の顔が映る。自分の顔がそれに重なっている。とけあっている顔が、あなたになる。なれる。輪郭を外してしまえば、どうしようもない肉体の壁を超えてあなたにもっと近づけるという発見。〈顔の裏で〜〉の鏡を見ている様子とつながる。

2018年に出版された『カミーユ』に収録されている以下の歌。

ああ斧のようにあなたを抱きたいよ 夕焼け、盲、ひかりを掻いて

『カミーユ/大森静佳』
(書肆侃侃房)

斧がふかく打ち込まれる様子を想像する。切るということよりも打ち込むことへ、刃を肉へと食い込ませることへと向いている意識。剣では切り裂いてしまうあなたの体にも、斧であったら食い込める。この深く食い込む感覚は、連作『木乃伊』に流れているものの手触りと似ている。

侵害なのではないか、とふと思った。文字にするとあたりまえすぎて陳腐になってしまうけれど、人と関わるときのあらゆる行動は侵害をともなっていて、そうでなければ私たちは関わることができない。わたしたちも日々侵害し、侵害されているから、その姿をみたことがある。だから、染み込むようにわかるのだ。

連作の最後には次の作品が置かれている。

いつか躑躅つつじが夜空を覆う いつかわたしはあなたの指を本当に食べる

好きな人の、好きな音楽を聴いたり映画を共有したりするのは、魂の形を変えようとする行為だ。輪郭を似せようとする行為だ。ミイラの姿をみて主体が気付くのは、私をつくっている輪郭をゆるめることで、他者に近づくことが可能だということ。肉体が魂を規定しているから、ほどく。肉体の輪郭をゆるめることで、強固な「わたし」がほどかれて、よりあなたに近づける。

そして、体の一部を食べるのは、もはや相手の魂に直接さわってしまうようなもの。意識のなかで解かれた輪郭になった上で指を食べれば、本当に魂が混ざり合ってしまいそうだ。なぜ、指なのか。大森は『てのひらを燃やす』の後書きでも以下のように書いている。手に近づくことは作者にとって大きな意味があるのだ。

幼い頃から、怒りや悔しさが兆すとどういうわけか心より先にまずてのひらの芯が痛んだ。てのひらにこそ〈私〉が在ると信じていた。

『てのひらを燃やす/大森静佳』
角川書店

作者にとって特別な部位である手のひらの、そのすぐ近くの指。わたしがそこに在るならば、あなたもきっとそこに在る。あなたになるために思考によって魂へと近づき、それだけでなくすこし千切って自分のものにしようとする。

木乃伊の一連に引き込まれるのは、共感してしまうから。それは、一般に使われる「他者の感情がその通りだと感じる」程度の共感ではない。もっと、心の底を浚って引き摺り出されるような。

考えたこともなかったようなことを差し出される。しかし思えば、わたしたちは日々傷つけあって、憧れあって、あの人になりたいと思っているのだった。とてもありふれた感情なのだった。読後、心がひどく震えるのは、大森の短歌によって皮を剥がされた侵害の姿を見た時、その感触を思い出すからだろう。

もう頭のなかでは「あなたにもなれる」ことはわかっていて、あとは言葉が現実の肉体をほんとうに捻じ曲げるのを待つだけだ。もう少しで、捻じ曲がる。


読んでくださってありがとうございます! 短歌読んでみてください