見出し画像

とめどないエンドロールに拍手をおくる - 2020年と『ナムタル』の声


II

新型コロナウイルスが広がり始めた頃、私は大学生として岡山県に暮らしていた。卒業論文のための実験を残すのみだったので、当時新しい試みとして開かれたオンライン授業をほとんど受けずに済んだのだった。

昼の三時に風呂に入った。飲み会や外食が激減した。何もかもがまともにできるような状態ではなかったので、卵焼きをほそぼそと作った。普段はうっかり外食してしまうのだが、この年の4月の食費は25,000円を切り、ささやかに嬉しかったことを思い出す。

短歌を読み始めたばかりで、その頃はたしか中澤系『uta0001.txt』や雪舟えま『たんぽるぽる』を読んでいた。歌集の出版社のWEB連載欄の存在には気づいていなかったし、土岐友浩の本はまだ持っていなかった。

「コロナ禍を詠んだ作品だと思って読んだらおもしろくないなあ」という発言が、短歌の本に書かれていたのは覚えている。歌会ではコロナ禍の出来事として作品を読むのかどうか、それはおもしろいのかどうか、そんな発言がたびたびあったように思う。

当時の自分といえば、何を読んで、詠むのかについて関心がなく、新型コロナウイルスがもたらした創作への影響についてあまり考えていなかったため、ひたすらぼんやりと短歌を読んでいた。

牛角のエスカレーター 死ぬことがたしかに怖くなくなってきた

 『ナムタル』/土岐友浩


IIIIII

東京オリンピック2020も新型コロナウイルスも過去の話になってしまって、誰も当時を覚えていない百年後。

埋められていたかのように閑散とした図書館の詩歌の棚に、若い読書家がたどり着く。彼はうつくしい表紙と「ナムタル」という珍しい文字列に眼を奪われたようだ。土岐友浩のこの本には新型コロナウイルス流行下で詠まれた作品が多く収められている。

歌集を読んでも2020年がどのような年だったのか彼には解らなかった。どれほどの死者が出て、誰が怒っていたか、誰が隅に追いやられていたのか。具体的なことはさっぱり読み取りようがなかった。けれども、短歌を目で追うにつれて、彼は遠い時代の空気をうっすらと体感していくのである。たとえばそれは、次のような短歌で。

あべちかに開けたら泡が湧きあがる生ジョッキ缶ふたたび並ぶ

飲食は二人までなら認めます 三面大黒天がほほえむ

片耳にマスクの紐を引っかけて四天王寺の鳥居をくぐる

あべちかの短歌の「ふたたび」であったり、二首目「認めます」の言わなくていいのに言わずにはいられない感じ。平時(平時?)なら気にならないような事柄に神経が敏感になっている状態がさりげなく書かれている。ここでは文字は論理を差し出さず、作者の体感としてあるのだった。

———本の中で読む短歌たちは、切れながら、つながる。思えば断続する形式はわたしたちの記憶のありようと似ている。記憶は、音や映像がゆるんだ糸でかろうじてつながった姿であるように、短歌連作もその構造をとる。

短歌は単なる記録ではない。
しかし奥底に作者の記憶が含まれるのは間違いなく、生者として過ごす時代の様子を反映する。そして切れながらつながる構造をなぞって読むことが、———つまり連作として土岐友浩の声が聞こえて来ることが——— 作者が触れたコロナ禍の数年をありありと感じさせるのだ。そう語るのは、あまりに朦朧として感覚的だろうか。

短歌連作は論理で説明できない記憶を残すには、ぴったりの形式なのかもしれない。記憶の構造を持って文字となり、ナムタルは書き残された。ただ、これが適切な見立てなのかどうかは百年後、ナムタルを読んだ彼らに聞くほかない。


幽霊になった気分でとめどないエンドロールに拍手をおくる


読んでくださってありがとうございます! 短歌読んでみてください