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晶洞

雪山を裂いて列車がゆくようにわたしがわたしの王であること

『結晶質』/安田茜
書肆侃侃房

歌集『結晶質』の冒頭には孤独を選びとる決意の歌。王は多くの家臣を従えるものだけれど歌の中に他人はいない。<わたし>しかいない。わたしの他にわたしをコントロールするものはないと言い切っている。

ピエタ像ひとりで真似てあくる日のある朝きっと本物になる

たとえば、これも孤独の歌だ。
ピエタを母子の人間関係の図として読みたい。産まれることを通して、人間が「母」と「子」の関係を必ず結ばねばならない事実。歴史的主題であるピエタを一人で真似る行為が表す、人間関係へのきっぱりとした拒絶が一首に塗り込まれている。

歌集に宛てられた栞のなかで堂園昌彦が「抽象的で硬質な詩情」があると書いていて、私もそう思う。そう思っていたから、孤独によってもたらされた透き通ったイメージと響きあうものとして、タイトル「結晶質」が置かれているのだと一人合点していた。作者が自身の歌の性質を言い表す役割を期待して置いたタイトルなのだ、と。

しかし、よくよく考えてみると「結晶質」という単語の選び方には違和感があるように思う。

雪と花、ふるものという点だけでしろい光をしずかによこす
完璧のかたちさびしく照り映えてアル=ケ=スナンの製塩工場

結晶質とは、原子、分子、イオンが規則正しく三次元的に並んだ固体を指す言葉だ。結晶質を持つ物質の例には、氷や塩や宝石がある。結晶のモチーフが詠み込まれた歌は三十四首。

だが結晶質とは単に透き通った硬い物を思わせるものではなく化学的な状態を示す言葉であり、結晶そのものではないという点がひっかかる。真正面からこの冠を受け止めようとしてみる時、詩情を言い表すためだけの言葉としてはズレがあるように思う。

抽象的で硬質な詩情にマッチさせたいだけなのであれば、もっと他の選択肢があったなかで ——たとえばそれは「結晶」のような——、しかし歌集には「結晶質」というテクニカルな冠が被せられているのだった。

石英を朝のひかりがつらぬいていまかなしみがありふれてゆく
オパールに遊色満ちてわたしからはがれておちる暴言あまた

結晶質という言葉の意味について、また翻って『結晶質』と名付けられたこの歌集について、僕は一つの読みに身を投じたい。

声の主は歌集の内部からこちら側をみている。結晶質とは、ごく小さな原子などが整然と並ぶ様であった。それでは歌集ではなにが並んでいるのか。歌集のうえに規則正しく並んだもの。それは、短歌だ。並べられた短歌たちはつながって声の主を取り囲んでいる。<わたし>が歌集の内側から見ているその構成要素の並びが、つまり一首一首が並ぶ様が結晶質という喩として現れる。

例えば一首目、つらぬいて、のような肉感のある言葉に注目すればカメラは近づき、<わたし>と石英が超近接した状態なのではないかと想像が流れる。現実の光景としては想像しづらい踏み込んだ読み方だが「つらぬいて」という身体感覚の伴う言葉に、単に置かれた石英を見て把握したと言うよりも説得力が出てくる。結晶を通って拡散し、目の前いっぱいに広がってゆく朝の光を想像させられる。石英を短歌にみたてれば、その向こう側(光源)とのインタラクションを読むことができる。その光にかなしいという感情が引き出されて満ちてゆくのだ。

二首目には身のまわりに満ちてゆくオパールのきらめきがあり、順接的に<わたし>の身体から引き出されている言葉。ここにも<わたし>と結晶との距離が極めて接近している感覚を読み取れるだろう。

あぶないのでなかにはいってはいけません アメシストの晶洞のなかには

下句。マイナーな単語だが直接的な言葉である。ここでの晶洞とは宝石・アメシストの内部の空洞で、短歌で構築された空間の内側に入り込む恐ろしさ、関係を拒絶した先の場所のあやうさを自覚しているかのようだ。ここにもひとつ主体の今の居場所を想像する手がかりがある。

結晶(すなわち短歌)で囲われた空間に佇む主体像を想像しながら読んでいけば、例えば<声帯があるから声はのびやかにどの地獄へもふるえがとどく>の「声帯」も内なる声に共鳴する短歌の器そのものの喩だと読めはしないか。短歌を震わせているからこそ、伸びやかに響く言葉がある。

上記の読み筋をここで取り出したのは、テキストに論理的な説明を得たからではない。けれども、私がこの読みから決定的に離れられなくなってしまったのは、第Ⅰ章に付けられた章題「遠くのことや白さについて 」を思い出したからだ。

戴冠の日も風の日もおもうのは遠くのことや白さについて

普遍的なシンボルによって象られた高らかな孤独。そう読んでいた歌が「結晶質」の喩をとおせば、切実に実体をもった風景として浮かんでくる。結晶のなかから世界を見渡そうとすれば、光は拡散して白く、なにもかも遠くなる。

一人になった地点から見るその光の出所は、いまはもう自らの手では触れられない世界の営みだ。関係を退けて選んだ場所まで届いた光の、目の前いっぱいの乱反射や、手の届かない遠い場所へと思いを馳せること。白さや遠さはどんなときにも意識されていること。

歌集にある言葉が観念的なものではなく、肌に迫った問題、目の前に広がる現実として在るのだという読み方ができてくる。つまり『結晶質』に現れた言語世界は、単に言葉を操る喜びのみで立ち上がるのではなく、透き通っているだけでもない。関係のなかにいられないような心を持ちながら、孤独を選び取りながら、それでも世界との関わりを希求する姿勢そのものが形をとった一冊なのである。作者は自分と世界と短歌の位置関係を、喩によって表明している。

戴冠の日も風の日もおもうのは遠くのことや白さについて


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