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山羊と家具屋の理想像

山羊をほとんど知らない。

実家のまわりには動物園がなくて、車で行ける範囲にもなかった。住んでいた場所には、電車が通っていない。祖父の家までの道、車で通る場所に、山羊を飼っている家庭があった。幼い頃に車窓から観た覚えがある。いつしか山羊をそこで見ることは無くなってしまった。山羊のランニングコストが高いのか、単純に飼育に飽きてしまったのかはわからない。

今も昔も、暮らしから遠い動物だ。土佐犬と同じくらい。例えば亀は近くの田んぼで拾ってくることができたし、鷺は観たことがある。牛は飼っている。田舎で育った身としては、心理的にも物理的にも距離を感じる動物はなんとなく山羊がナンバーワンで、その次に土佐犬である。

カバやサイも、もちろん周りにはいなかったのだけど、なぜかそこまで遠くはないものとして認識している。テレビで頻繁に見ていたからだろうか。彼らは大きくて危ないので、ハプニング映像などで観ている記憶がつよく残っているのだろう。それに比べて山羊は小さくて(いや、小さいのか?)、温厚なので(温厚なのか?)、記憶に残っていないのかもしれない。

山羊の馴染みのなさ。暮らしから遠い動物だと思っていたが、よくよく考えてみると、どれほどのポピュラーさで動物園にいるのかについて、そもそも知らない。動物園を最後に訪れてから、もう十年は経っている。あの頃はカピバラブームで、ずっと彼らのコーナーで遊んでいた覚えがある。動物園の名前はわからない。

君が山羊、山羊が羊にかわるころ品のよい家具屋で暮らしたい

『光と私語』/吉田恭大

山羊の話をしたのは、上記の掲出作品がとても印象的だったからで、ずれた時間の認識があって、イコールでは結びつきそうもない事柄が三つ置かれていて。なんだか好きだ。ちなみに「君が山羊」というフレーズを検索すると村上春樹の本に突き当たる。

歌集『光と私語』を読むとき、あっ、これは全然知らない世界だ、と思う。例えば、東京に住んだ経験もなく、生まれてから18年間を電車のない土地で過ごしていた僕にとって、駅や駅前の広場や名画座、動物園は馴染み薄いものだ。

だけど、見たことがある気がする。特に公園や動物園の短歌は、なにか知識ではなく琴線をそのまま掴んでくるような。琴線という表現が正しいのかはわからないが、とにかく、ないはずの記憶を触られているという感覚。

何回も読んでいると、だよね、そうだよね、もしかして私は吉田恭大だったのか、みたいな変な錯覚が生じるのも楽しい。思ってもみなかったことを、以前から思っていたように感じさせてくれる。

「布団と素数(『光と私語』について)」/荻原裕幸

付録の『光と私語について』の荻原の文章のなかにあった文章はまさしく感じていたそれにぴったりである。もしかすると、多くの人がいだく感想なのかもしれない。あじわったことのない風景をあたかも「以前から知っていた」ように感じさせてくれる。みたことのない駅のみたことのない駅前広場。その場所で起こる光景を、ぼくは知っていた。

既視感とはまたズレた何か。イデアという表現が一番近いような。何がそれを感じさせるのかは、よくわかっていない。

吉田は大学を出るまでは鳥取に住んでいたらしい。大学入学と同時に東京に住み始めたのだと思われる。いわゆる「地方」で生まれ育った背景を持つ作り手の目線が、作品に染み込んでいて……。と、考えはじめて、安易がすぎるのでやめた。

品のよい家具屋についても触れねばならない。

そういえば、ぼくが生まれ育った場所には、人口三万人に対して一軒の家具屋しかなかった。いや、実際にはもっとあったのかもしれないが、十八年間の生活のなかで見たことがあるのは一軒だけ。名前を大川家具という。

品のよい、家具屋。品の良い家具屋に対しても、あまりにも無知であることにいましがた気づいた。家具は近所にあるリサイクルショップで揃えていて、家具屋でものを買った経験がほとんどない。そして、ぼくがいったことのある家具屋はニトリと無印良品だけだ。品の良い家具屋に行ったことがない。大川家具は品の良い家具屋だったのだろうか。

品の良い家具屋を知らない。だが、おそらく僕は、僕のなかに理想的な品の良い家具屋を持っている。

家具屋だけではなく、どんなものにも。一人暮らしの部屋や、噴水、街並み、鳩の散らばってゆく光景にすらも。光と私語のなかの短歌は、僕の中にある理想の山羊、山羊をみているときの空気、品のよい家具屋、山羊に餌をやるあなたを触っている。




読んでくださってありがとうございます! 短歌読んでみてください