光のなかで、生きていく。
この台詞は、今流行りの。でも内容は、全然関係のない少し昔の記憶です。
この台詞を聞いた後に「光のなかで生きていく」ことについてしばらく考えていた。今でこそ自分は、光のなかで生きている、ような気がするけれどおよそ4年前まではそうは言えなかった。
先日、ちょっと町田に用事があって帰りに「浅野いにお展」によってきた。サブカル男女の教科書、おやすみぷんぷんやうみべが評価されがちだけどほんとうに面白いのは短編集の中の「TENPEST」。85歳以上の高齢者は『最後期高齢者』として高齢者特区への入居が義務付けられ、90歳の誕生日に実施される「老人検定(500問中500問正解で合格)」に合格出来なかった者は、「人権カード」を失ったまま出所する話。まあこの話は今度でいいや。
とにかく、この展示に行った時、自分が初めて「おやすみぷんぷん」を手にした時のことを思い出していた。
ぷんぷん一式は、私の持ち物ではなくて、そのゴミ屋敷にゴミ同様に床に落ちていた。ただなんとなく手に取ったのが初めての浅野いにおだった。私は後にも先にもあの家以外にゴミ屋敷を知らない。あの暗い部屋で目が覚めて、気がつけば昼か夜かもよくわからなくて、主はいなくて、私も床に落ちたペットボトル同様にゴミだった。緩く巻いた長い髪も、ミニスカートも、7センチのヒールも下北沢には合っていなくて異邦人って感じ。舌の中央に開いたピアスをカチカチと鳴らす癖がなかなか抜けず、とにかく今よりずっとずっと何かに怒っていたし、もっともっと人に対してさらに怖がりだった。窓のない湿った部屋とか、向けられた怒声とか、本当によく生きてたなと思うあの日とか、全部を忘れることは自分を殺すことと同じような気がして、そうしてあの日々はちゃんとなかったことになっていくことがうっすらと恐ろしくて、もう使うことのない舌ピアスはずっと短くなった黒髪の下、耳軟骨にお守りとしてつけている。
でもあの頃と変わっていないのは、私はどうしても愛子ちゃんを好きになれなくて、南条さちが好き。愛子ちゃんは「光のなか」で生きていけなくても、本当に欲しい愛を手にできるじゃないですか。さっちゃんは「光のなか」で生きているのに本当の意味でぷんぷんを手にすることができない。きっと私が今のまま歩んでいくのは、後者の人生なんじゃないかと思う。あの時「光」を目指してしまったときから歩みは始まっていて、このままゆるゆると光のなかで生きて、それなりの幸福を代償に本当に欲しかったものから目を瞑って緩やかに死んでいくのではないか。光のなかで生きていく、ことはあたたかで幸福で、優しい。でも、その幸福をずっと恐れている自分がきちんとまだ眠って息をしている。飼い慣らしきれていない怪物が目を覚さないように、唸り声から耳を閉じて静かに歩く。そういうものは誰にでもあって、光の白さで塗りつぶせなくて。塗りつぶせないからこそずっと汚いままで蠢くそれを、抱きしめて眠らずに済む日が光の先にあるのだろうか。
2022.11.14
すなくじら
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