痛い目を見る

久しぶりに2週間連続でわんわん泣いた。大の大人の癖に恥ずかしい。先週は珍しく悪酔いをしてしまい反省(酒はそこまで弱い方ではないと思っているが、流石に飲みすぎた一面もありしばらく禁酒の刑に自分を処していた)。今週はそういう訳ではなかったけれど、なんだか気持ちがまとまらなくなって泣いてしまった。

今週末はキュウくんの親友に会ったり、私の親友をキュウくんに会わせたりした。その時間自体は凄く楽しくて(お世辞抜きに本当に)キュウくんの親友も素敵な方でしかなく、その時間自体は有意義で楽しくて仕方なかった。飛び出してくるワードに、ずっとくるくると頭が回っていた、と思う。

だからこそ「なんでこんなことになったんだろう」とずっと考えていた。私の精神的な幼さが原因の中心にあることは前提として、自分があまりにも人生の中で誰かを知ろうと思ってこなかったことが拍車をかけている。今まで“友人も少なく、滅多に他人に心を開かないタイプ”という免罪符で、人を理解する努力を放棄してきた。だから、大切な人の新しい面を知った時、「自分と似ている」側面以外にすごく怯えてしまうんだと思う。似ていないと一緒にいられない。なぜかそんなふうにずっと思っている。

キュウくんに「同じじゃなきゃダメなの?」と聞かれてハッとした。文章を書いているくせに心の言語化が苦手で、本質からズレたことで目の前の相手に偉そうなこと言って、傷つけて。そんな自分に嫌気がさした。でも結局今日分かった。自分と違う部分が見えたことで離れられるんじゃないかと思って怖かった、それだけ。みんなと一緒、じゃなくても良いから“わたしと一緒”の人たちだけで生きればいい。“違いを理解する”をサボって、すぐに「諦める/離れる」を繰り返してきた、そんな視野の狭さから生まれた「守り」のツケを払った気分だった。

思い返せば、10代の頃は「幸せになりたい」と口癖のように言っていた。「そう言わなくなった今、私は幸せってことなのかな」なんて思った日もあったけど、単に大人になって、幸せが複雑化したからこそ、「幸せ」の中身の本質がわかんなくなっただけなのかもしれないと思い始めた。

明確に見える指標の中で満足できる人が、あらゆる意味で凄く羨ましかった。全てのそれが幸福につながっているわけではないことは重々承知の上。それでも「子供がいる」「結婚している」とか、そういうことのわかりやすい指標を幸福確定の証として捉えられる人たちがいて。でも、わたしにその人たちを断罪する権利なんてない。それにわたしは、ずっと憎んでいながら、きっと羨ましくも思っている。“そうなりたい”んじゃなくて、そこに辿り着けば幸福だと思える思考に感じる微かな軽蔑と共感。普通からでたい、でもでられないと思う。最近、村田沙耶香の『地球星人』を読んだ時にも似たようなことを思った。

私はこの街で、2種類の意味で道具だ。
1つは、お勉強を頑張って、働く道具になること。
1つは、女の子を頑張って、この街のための生殖器になること。

『地球星人』では、この思想に染まった人物のことを「洗脳されている」と書いていた。自分はどうなんだろう。洗脳から逸脱したいと思いながらも、心底では洗脳されている(もしくはされていたい)と思っているんじゃないの? 働く道具、と言う意味なら仕事は嫌いじゃない。むしろ好きだ。これも、常識にそう思わされてるのかもしれない。

たまに夜中に1人で、どうしても考えてしまう。いい文章を書きました、(ここから先はあくまで理想だけど)たくさんの人に読まれました、有名になりました、じゃあその先に何があるの? 結婚しました、子どもを産みました、やっぱり、じゃあその先には? それで私は本当に幸せになれるの? みたいなことを延々繰り返していると、だんだん気持ちが暗くなってきて「人生、全部終わりにしちゃえば?」と昔の影がにゅっと顔を出すことがある。ゴールが見えない日常という旅を続けることの難しさ。みんなはどうやって、これを乗り越えているんだろう。その繰り返し。生きること、ときどき凄く難しく感じる。

こうなりたい、こうしたい、という欲望がないわけじゃない。でも、その欲望の先にあるものが見えないから、辛いんだと思う。心の調子が最近少し悪い気がする。仕事はとても楽しいので頑張りたい。暑くて暑くて死んでしまいそうな8月だった。



2023.08.27
すなくじら




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