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原発事故で私の人生は壊れた(1)

2011年3月11日時点で、福島県南相馬市原町区在住、事故当時屋内退避、その後緊急時避難準備区域。母と私(すない)2人で生きておりましたが、震災後に私と母の身に起きたことを、記憶の限りそのままお伝えしようと、このような形で記してみようと思いました。屋内退避とはなんだったのか、原子力発電所というものが、この国にとってどういうものなのか、何をもたらしたのかを、私の避難生活を通して、少しでも考えてもらうきっかけになればと思います。冒頭の写真は2011年4月9日。北泉海浜公園へ向かって走っていく途中海に向かって撮影したものです。これ以上海へは近づけず記録として撮りました。


震災発生~避難

2011年 3月11日 14時46分から3分間。この時間だけは忘れることできませんわ。忘れられるわけない。まさか、その3分でホントの生き地獄を政府から、被災しなかった国民からまた、同じ被害者のはずの福島県民からも受けるとは夢にも思わなかった。

よく幼児虐待が報道されるけど、震災被災者に対する国会議員と福島県と公務員たちの対応はそれに匹敵する虐待行為だと思う。大人がこれだもん、子供はそりゃ大変だよ。と幼き日のいじめを思い出す。

それで、よく税金で食ってられるわと。ふざけるな!と叫びたい。

怒りを通り越した怒りが湧いてくる。君たちは一体なにで給料貰って生活しているのか。

3月11日の午前中までは、私はロストジェネレーションで底辺中の底辺ではあったけど、まだマシだった気がする。生活は普通に苦しかったですがね。
その日は午前中知人と会って、ご飯食べて、電気屋さんにゲームソフトを買いに行って。午後1時過ぎから、そのゲーム開封して、遊んでたわけです。

だから、阪神や中越で被災した方々は絶対大変だろう。と想像の中での出来事だったわけです。地震で被害にあって避難しなきゃならないなんてことはね。食料も飲み物も1週間分くらいしか用意してなかった。その判断が、木っ端微塵に打ち砕かれて、それこそクソの役にも立たなかったと思わされるとは、それまでは想像すらしなかった。

そもそも、3月11日14時46分以前の日本人で、地震によって原子力発電所の原子炉建屋があれほど見事に爆発して吹き飛ぶって誰が想像したでしょう?

なにかのコントかと思うくらい、その吹き飛びっぷりはすごかった。

というのは、後で見た映像でですが。当時は、爆発音的な音も聞いた気がするけど、それが建屋が吹き飛んだ音なのかは、わかりません。そんなこと今更どうだっていいし。

爆発前と後で何が変わったか。日本の国民に分断が起きた。福島県民が粉々に分断した。東電なんて最初から逃げる気満々。日本の政府は責任感ゼロ。やる気もなけりゃ、金出す気もない。ああ こんな国に生まれて不幸だよあたしゃ。というのが今現在の率直な感想です。

屋内退避

私が住んでいた、南相馬市原町区は緊急時避難準備区域。そもそも緊急で避難準備ってなんやねん?言葉の意味もよくわからない。爆発してから時間が立ってるので、記憶がもうあやふやだけど、12日に爆発して、逃げる手段もなくて、いずれなんとかなるだろうくらいの感じ。が、それでは遅かった。周りは全員避難してしまっていた。さらに、11日にはいたはずの、消防、自衛隊は12日夕方にはいなくなっていた。避難所へいくが、満杯の上津波被災者を優先しているため、私のような家が無事な人間は避難の範囲に入ってないらしい。

諦めることなく、役所へ行くが明かりもつけず数人の役人。そこで、屋内退避を知る。屋内退避で食料援助あるの?食料自体あるのかないのか知らないが、わかりません。と

こんな会話をした記憶。

あーやばい逃げ遅れた。最初に出てきた言葉。車に燃料なく途中の山で走らなくなることがわかっていたので、
当然車で避難することは断念しました。。思い出しただけで鬱になります。

そこからは屋内退避と避難をいかに遂行するか。。。

屋内退避といいつつ外部支援がない状態で車がなかったら、まず避難は不可能。始めから継続が困難な事は目に見えてます。「これは、原発被災の最も重い課題となるであろう。」と専門家っぽいことを考えながら、とにかくツテをたどりまくる。これが13日朝から。レンタカーやら探しに街に出るももう人がいない。今JR原町駅に人っ子一人いない状態は想像すらできないかもしれませんが、映画のワンシーンみたいだななんて。非現実的な景色にそんな無意味な感想を抱いたものです。

私アホですか?
皆さん普段使っている電車やバスなど公共交通機関が全く機能しなくなる
そんな想像できるでしょうか?私はこの目でしっかりと焼き付けてきました。当時iPhoneがすぐ電池がなくなってしまう恐れもあり、充電も取れるかわからなかったので、写真等は残してませんでした。残しておけばよかった。
この懸念は避難後思い知らされるのですが。それはもう少しあと。

結局避難不発で帰宅。
無駄な体力を使わないように、家で待機。なんとか電気は通っていたので。
光回線はこの辺で切れました。理由はわかりません。なんとか携帯電話はつながってたので、電話でなんとか生きているということだけ。電話で会話して大丈夫か?聞かれるんですけど、、、、
大丈夫なわけない。食べるものが調達できないんだから。

屋内退避で更に追い打ちをかけたのが、避難が困難っていうのは想像できるかもしれませんが、食料調達が不可能なこと。更に当時は寒かったから、燃料の調達が不可能なこと。もうこの2つは本当にきつかった。

外部からの救援が絶たれてしまえば、そこはたちまち陸の孤島になります。そもそも原発爆発したのに、避難所に入れない人を全く助ける気がない行政になんで税金払ってるのか、意味不明すぎる。自分たちがそもそも払っている市民税に住民税って一体何??そんなことが頭をよぎる。

3月14日朝

とりあえず、街へ出て様子見。人っ子一人いない。
なんだこりゃ・・・。どうすりゃええねん。テレビを付ける。
電気はまだ通っている。テレビで屋内退避を確認。このへんだったはず。
テレビをつける余裕すらなかったことに気がつく。しかし、テレビを見れば見るほどに腹が立つ。全くここの状況がわからない。何も。
で、体力温存でひたすら親子2人で布団に包まって寝ました。

3月15日

朝か午前。会社の同僚から一本の電話。飯舘村の知人が原町に行くから、飯舘村内までなら避難手伝えると。午後になるから準備してと。一式着替えをバッグに詰めて防寒着のようなものを着て準備。

一台の車。ようやくここから避難開始になるわけですが。持ち金もわずか。。。今から考えると18日に給料だったので、逆に良かった。といえるのですが。埼玉県に住んでいた弟の所へ行こうと。このときに決断した気がします。というか、避難できないのにどこへ行こうとか全然考えられませんでした。

午後、飯舘村の小学校の体育館へ。途中の山道に左右とも長蛇の車の列。燃料切れた車の列。ほんとに信じられない光景が次から次へと。

午後に到着。避難者登録。夕方、夕飯の支給。おにぎり一個とたくあん。足りない。しかし、母親の分は母の体力も消耗が激しいことから、私がとります。が、振り分けてるおばさんが、
「あなた2つってどういうこと?」
「ん?母は体力消耗が激しいから。」
「本人が取りに来てもらわないと。」
「あ??」と、無駄な体力を消耗させるババアがマジで許せず。本気でキレ気味に会話をすすめ、結局認めさせる。つか、
この状況でそんなことして一体何になるのか。

3月15日夜~16日朝

一生懸命、首相官邸で会見する人たち。見ている人口が見る見る減っていく。
この差は何なのか。それがわからないなら、きっとどんな災害でも同じ過ちを繰り返すんだろうな。社会人になったとき、確か。。。同じ失敗繰り返さなければって教わったんだけど。繰り返される屋内退避の言葉。いい加減にしろよ って 空気。

そんなこんなで16日には皆一斉に避難をどこまでいけるかわからない燃料で家族会議がそこかしこで行われて、私も他人なのに見解聞かれたり。
北へ逃げるか、南へ行くか。仙台なのか、八王子なのか。
それこそ、命の選択みたいな様相。

あと数ヶ月で高校生になるはずの中学生は一体どうなるんでしょうか?
質問を受けた。「きっと特例措置が取られるはずだから、情報には目を通してたほうがいいよ」返答するが、そんな確信なんぞあるわけもない。
村役場の人がざわつく。暖房の燃料が切れそうだが、福島県は自分たちで取りに来いと言っている。と。本気でココも避難しないとまずいかも。という空気が流れ始めると同時にふざけるなよ福島県。と言葉にする人も出てくる。助ける気サラサラないでごわす。

3月16日夜

避難者が避難していった体育館で会社の同僚から。連絡あり
飯館村から二本松までなら避難を手伝えると。しかし、私は二本松まで行ってその先に避難する方法がないと困るので、福島市を選択。会社へ連絡し、なんとか明日に郡山へ行きますのでオフィスに泊めさせてくださいと連絡。承諾をもらう。

3月17日

同僚は二本松への分岐である川俣で降ろさざるを得ないと。公共のバスが動いてることを確認した上で避難を決断。飯舘村役場の役人にお礼を言って避難開始。

分岐点川俣のバス停でおろしてもらったが、、、福島駅へのバスがなんと5時間待ち。もう、なんといっていいかわからない感情が入り乱れた。
寒い。寒い。寒い。自販機も動いておらずコンビニも閉店。
iPhoneの電源も見る見る減っていく。ところかまわず充電しつつ、動いている自販機を見つけるも、お金が飲み込まれる。更に歩いてやっと見つけてバス停に戻り寒風避けて暖を取る。

待ち時間中数台のバスを見送る。実はこれが南相馬市のバスであることはすぐに分かった。が、避難先が長岡であることは後で知ることになる。
津波被災者は市のバスで避難が決まっていたし、避難直前に耳にしてました。
怒りというか、やるせなさに打ちひしがれるも待つしかないジレンマ。
クソ寒いし。ムカつくし。なんか笑えてきた。

そうして5時間待って福島駅。
そこから更に1~2時間ほどバスを待って、郡山へは夜到着。17日夜。
持ち金数千円。The貧乏!

郡山ではオフィスではなく、上司のご自宅へ泊まらせていただきました。
郡山のコンビニに寄るもアルコールしかなく。労いと1本だけ買ったのは覚えてるのですが、あとは何買ったか覚えてません。
上司の自宅へ着いたとき初めて避難が成功した。とホッと安堵しました。
そして、まずは母親をお風呂に入れさせていただきました。

18日朝

今で言う、ガラケとiPhoneを充電満タンで18日朝。
朝いち銀行で有り金全部下ろして、郡山駅へ。

職場の福島支部??な所へ出向き、
通らないであろう、転勤を願い出てみたが却下されたので、
今後どうなるかもわかるわけもないので退職届を書いた。
もう福島には戻らない。


そこから会津→新潟へと思ってたのですが、なんと郡山からは新宿への直通バスがあったのです。問い合わせると、予約が必要です。
一体この国のシステムって何なんでしょうか。本当に必要なところに、必要な情報が絶対いかない素敵なシステムです。
諦めて、一番お金がかかるルートで埼玉県まで行きました。
バスで郡山→会津→新潟、
電車(新幹線含む)新潟→埼玉県所沢市給料日が重なって、ラッキーでしたが、、、給料使うのが嫌だったから、クレジットカードでと思ったら使えない。。。もう笑うしかない。緊急時に役に立たないとは。新潟駅に着いた時には避難している必死な人も見ることなく。平穏な感じでした。

コーラ2本500mlを一気に飲み干しました。
人生で一番美味しかったコーラかもしれません。

そこから大宮で新幹線を降りて、
在来線乗り継ぎで所沢市内。電車のアナウンスで聞こえてくるのは、
「ただいま、福島第一原子力発電所の事故による計画停電のため」
のアナウンス。正直怒りより乾いた笑いしか出てこなかった。
ギャップに怒るより、ここにいる全員にそんな現実みせてやりたい。

しかも、服装が完全に宇宙人。浮きまくり。そりゃ寒かったから。
悲壮感が漂っていたんでしょう。ヒソヒソ話も聞こえなかった。
多分笑われたと思ったら、衝動を抑えられなかった。
聞こえもしなかったから、何にもありませんでしたが。

興味もないんでしょう。。あれだけ騒いだことを忘れられるとは
本当に虚しいしか言葉が出てきません。私が叫んだところで一体何が変わるというのか。叫ぶと攻撃が激しくなる素敵なシステムすぎて、嬉しくて泣けてきてしまいます。大宮から所沢までの道のりで、そんな感想が出てきながらも、弟と再会したときは、本当にホッとしました。
こんなこと人生で初めてでした。

第一部 完

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