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表裏 ‐ 嫉妬

ネガティブなイメージがすっかり定着した「嫉妬」という感情だが、どうしてそうなってしまったのだろうか。手放しに他人を称賛することだけを、欲にまみれた人間にできるわけがない。皆その感情を内に隠しているだけだ。だとしても、どうしてそれがネガティブな意味を持つのだろうか。

嫉妬心の根底にあるのは羨望だ。だからネガティブな意味を持つのだ。
だってそうでもなければ一方的な羨望など恥ずかしいだけだものね。これは持論だが、嫉妬は最も自分から近い憧れの姿だと思っている。だからこそ妬み、隠すのだ。


今回言いたいのはそんな話ではない。嫉妬心を抱くことすら否定するような風潮に疑問を呈したいのだ。
嫉妬心は大きな原動力にもなり得る。現に私もそうだ。嫉妬して止まないような人間は何人もいる。だがそれを原動力に、自分に還元するようサイクルを組んでいるつもりだ。

人の感情は誰にも否定できないし、されない。それはどんなに酷く、脆く、醜い感情でもそうだ。それがあなたの感情ならば、否定されるものではない。

問題なのはそんな感情を外に向けることだ。
ましてやその感情で人を殺そうとすることだ。

自と他、そこには明確な境界がある。というより、本来は壁があるはずなのだ。それを取り払わないといけなくなったのが今の社会だ。だからその「境界」を踏み越えないように、「気遣って」いるのだろう。


私は嫉妬する、毎日を健やかに過ごしている人々に。
私は嫉妬する、社不を自称しながら暖かい環境で生きている人々に。
私は嫉妬する、ストレスだメンタルだ何だ言いながら、結局心は健康に生きている人々に。

私は嫉妬する、死を願うほど回転する思考をしない、「普通」の人々に。


その嫉妬は結局己の感情の表裏だ。だから内に秘め、外に向けてはならない。
向けた瞬間それは、ただの自己満足で下劣な罵倒に成り下がる。そんなの悲しすぎるじゃないか。せっかく芽生えた感情を、自分の足で踏み荒らすな。

私の嫉妬、それはきっと、この社会の人間の一人として普通に生きたいという、ただそれだけの願いのはずなのに。




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