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サイコパスについて。

最近集中力が続かず、読むのが長引いてたサイコパスの本をやっと読み終えた。

サイコパスに興味がある。サイコパスのみならず、基本的に人に興味があるのでネットでもリアルでも割と見てしまう(ストーカーじゃないです)。

ネットを見ていると炎上するツイートや動画がある。
なぜ、人は炎上してしまうのか。なぜ。批判を受けることを事前に察知できないのか。そしてなぜ、叩く側もモラル・社会規範から漏れた人間を叩くのか。その怒り、原動力の源泉はどこなのか。
これは誰もがある程度興味を持っている現象だと思う。

結果的に、とても勉強になった。実際の研究結果や論文を論拠として挙げながら、分かりやすい言葉で説明されていて、読みやすかった。

サイコパスは大体100人に1人くらいの割合でいるらしい。
共同体の社会規範、人間の良心を持続していく上である意味役に立っている。
「こういうのはよくないだろ」「こうあるべきだろ」などの指摘が同調圧力だとかイジメだなどと批判される場面もあるが、社会規範に漏れた言動する人間が制裁受けるのは共同体を持続させる働きもある。その中で、共同体の良心が醸成されてゆく。ある意味、サイコパスの存在が共同体維持に寄与しているのだ。

フリーライダーとサンクション、という項目が分かりやすかった。
共同体の中には働き者もいればサボる者もいる。後者はフリーライダーだ。
全員がフリーライダーになってしまえば、その共同体は持続することができなくなる。自分たちがそれぞれの役割を担い、支え合って生きていく必要があるので、フリーライダーにはサンクション(制裁)がくだる。
また、働き者で自己犠牲を厭わない、他人のために尽くすことが生きる喜び、という向きはフリーライダー、サイコパスの餌食にされやすいと書かれていた。それはまあそうだろうと想像はつく。

フリーライダー、とはまた違うニュアンスにはなるが、ネットの炎上のメカニズムもまたサンクションの一部と言っていいだろう。制裁する側は脳に快感を覚えるらしい。そうすることが社会を保っていくことに寄与すると脳が思いこんでいるから、叩くと気持ち良くなるようになっているのだと。

では、サイコパスと言う存在は、単なる鼻つまみ者なのか。
一概にそうとも言えない。むしろ共同体に寄与することもある。

元々恐怖心の薄いサイコパスはチャレンジングかつアグレッシブなので技術革新やフロンティア開拓に寄与するという側面もある。冒険家、格闘家などにも向いている。
罪悪感も薄いので、戦争やスパイに向いているらしい。なんの躊躇いもなく相手の命を奪ったり、とっさに冷徹な判断が下せるのだとか。
人をたぶらかしたり人心を掴むことに長けているサイコパスは、小説家も適していると。空想の話を作り上げて人を感動させたりするのが得意だから。

つまり、サイコパスを排除しても共同体は進歩しないどころか存続も危ういし、サイコパスのように全員が振る舞ってしまえば共同体は崩壊する。
サイコパスのおかげで人々は楽しい空想世界を享受したり、命を救ってもらったりしているということもひょっとしたらあるのかもしれない。
だから、1人のサイコパスと99人の非サイコパスは共存していくほかない。

大体このような内容だと私は理解した。

読みながら、サイコパスって酷いな!と思うこともあれば同情する場面もあった。
サイコパスと共同体の関わりについて、サイコパス側には一体なんの得があるのかと思ってしまう。ただ生きづらいだけの誰にも理解されない孤独な生き物…なのだろうか?

私は案外そうでもないような気がしている。

私自身が「この人絶対サイコパスだ」と思う人は、自己肯定感もある程度高く、存外に人生を楽しんでいるように思える。いや、人並み以上に楽しんでいるかもしれない。

一方で騙され、利用され、搾取されることでサイコパスの餌食になる人もいるだろう。被害者にならないためには、非サイコパス側がサイコパスの生態を熟知しておき、未然にトラブルを回避するしかない。


色々と述べてきたが、私自身サイコパスなのではないか、と疑ってしまう瞬間が、日常で多々ある。そもそも、「そうかもしれない」と思ったのが本を手に取った発端だったりする。
謎の後味を残したまま、終わります…


あ、あと故石原慎太郎氏の「凶獣」


これは完全なるサイコパスのお手本。死刑囚宅間守の禍々しい人生の歩みが故石原慎太郎氏の男前な筆致で描かれていて、これはほぼ一気読み。
「狂」、ではなく「凶」の方をあてるという素晴らしい題名。



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