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自分の写真に言語化は必要?ビジュアルシンカーの存在と認識。

YouTubeのおすすめに突如出てきたゆる言語学ラジオというチャンネル。初めて見たのですが、ビジュアルシンカーの脳という本を紹介する回がとても興味深く、写真を撮る多くの方にも刺さる内容だと思ったので紹介します。

(この怪しげなトップ画はどうにかしてほしい…オカルト感…そしてとても長いです。さらには続きもあります。)

要約すると、「世の中には、何か考える時に言葉を思い浮かべる言語思考者と、絵を思い浮かべる視覚思考者(ビジュアルシンカー)がいる。そして今の世の中はたまたま言語思考者に有利な社会の仕組みになっているけど、本当はそこに優劣はないのでは。」という視覚思考者にフォーカスを当てたお話です。

そんな分類で考えたこともなかったですし、言語好きなこのチャンネルのお二人は、言語を上手く操れる人こそが優れている!と考えていたそうで、その思考の偏りにもかなり驚きです。そしてこの本の内容を紐解いていくことで、決して言語思考者が優れているわけではない、ということに気付いていく展開も面白い。

本の公式ページもありました。YouTube見る時間のない方は、まずはこちらを。

視覚思考は脳が視覚の回路を使って情報を処理する思考のプロセスである。つまり、考える方法が言葉で考える通常の言語思考と異なるのだ。

ビジュアルシンカーの脳

YouTubeやサイトを見る限り、私はかなり視覚思考者寄り。話したり文字を読んだりしても次々絵が出てきて違う思考に取り込まれてしまうし、地図を見るのは得意で1度通った道はよく覚えてるけど口頭で道の説明をするのはすごく苦手。

言語化ブームで、写真についても言語化が必要か否かがよく話題になりますね。
言語化でなるほど!と思うことも多い一方で、自分の写真についてや、なぜ撮り続けているかと問われたら話せる部分と上手く話せない部分があります。

それがなんだか良くないことのように思っていたのですが、きっと私の中には言語に落とし込めない要素がたくさんあって、だから絵や写真で表現し続けているのかもしれない。
明確に言語化出来てしまう人は芸術分野ではマイノリティで、だからこそ光り輝く存在に見えてしまうけど、決して言語化出来ない人が劣っているわけではないし、無理に言語化する必要はないのだと。写真こそが言語だと感じる人もいるのだとしたら、その人に言葉は不要だろうなと。
YouTubeを聴きながらそんなことを思いました。

話の中でも出ていますが、誰もが言語思考者、視覚思考者と区別出来るわけではなく、実際にはどちらも持ち合わせている方がほとんどだと思います。私も絵や写真があればキャプションはいらないよ!むしろ邪魔!とは思えないですし。

この話は一説であり、科学的に完全な根拠がある訳ではないそうですが、自分とは違うプロセスで物事を考えている人の存在を知るのは、世界が広がり、他者に寛容になることとも同義な、とても大事なことではないでしょうか。

つまり、偶然おすすめしてくれてありがとうYouTube、というお話でした。
(面白かったから他のも見てみよう。おすすめあったら教えてください。)


普段はXで写真を投稿しています。


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