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読まない本が救ってくれる


「無人島に持っていくなら」というあの質問に真面目に考える気はこの先もないとして、とりあえず「聖書」と答える。

肉体を支える実用性のある道具はもちろん必須だけどあまり興味がない。それよりも「無人島」での恐ろしい【ひま】(暇なはずないけど)そしてそこから生まれる【孤独】と向き合うことの方が自分にとってはよっぽど重要で、考えただけで不安になる。ほんとうは好きな本を持って行きたいけれど、毎日読んでやっぱり良いなと思い励ましてもらおうとするだろう。作者が生きてる人ならもっと複雑な気持ちに(この人の新刊が読みたいとか)なってしまう気がする。それくらいに欲は深い。だからと言って安直に慰めたり孤独に寄り添うような本も無人島ではより一層読みたくない。

その点、誰のことを誰が書いたのかもよくわからない聖書。あまりにも"事実"であまりにも"横暴"な読み物。ニ千年前に死んだ(生き返った)いま生きている誰ひとり肉体として会ったことのない人の話。そしてこのニ千年間、数え切れない人たちが読まずにはいられなかった、圧倒的に知らない人の"人生"の話。読むしかないときがあるように思う。ほんとうの孤独といっしょにいるために。

話したい語りたい聞いてほしいと強く思うのと同時に、聞きたい読みたい教えてほしいと思っている。それは大人の権力者の言葉でも口の上手い若者の話でもない、取るに足らないかけがえのない誰かの"人生"についてかも知れない。

ただ黙って読む自由がそこにはある
自分が語るよりも前に
自分が語ることも出来なくなった先に
読む自由がある

知らないひとの人生の断片が羅列されている本でで150人ひとりずつがそれぞれ1人に話を聞き、語った150人の人生を収録した本がある。そこには学びや救いがたくさんある。けれど明確な意味を見出せない、とても受け止めきれない話もたくさんあった。まったく関係のない、死ぬまで会うこともない人の人生の断片。

聖書と、この生活史の本はもちろん全く違うものなのに、わたしの中で切り離せない。
いくつもの時間が重なる語りの中で、自分にしか分からない赦しを見つける。もしくは見つけだされる。

そしてどちらも「あした読もうかな」と思える。それはいまより少しだけ先の時間を受け入れているということ。絶望していないということ。

無人島にねこがいたら
それでは全然
話が変わってくるからね



「大阪の生活史」

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