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「勉強できる子卑屈化社会」〜勉強ができるという”コンプレックス”〜

「できない」というコンプレックスではなく、「できる」という”コンプレックス”について。

 ひょんなことから、学歴をはじめとする結果・事実的な「頭の良さ」の話しをした。なんでもない会話なのに、じぶんの中に引っかかりがあって、テンポよく返すことのできない苦しさがあった。

 わたしは「よくわからないけど苦しい」状態への耐性がない。学校で正解を求められ続けた結果だと、我ながらおもう。

 じぶんが持っている言葉と記憶を、ふかくふかく探って、どうにか頭をひねらせていると、ふっと、この本のタイトルにたどり着いた。

「勉強できる子 卑屈化社会」前川ヤスタカ

 高3のとき、図書室の掃除中にみつけた本。やけにタイトルが印象的で、「受験が終わったら読もう!」と楽しみにしていたが、もれなく忘れて今にいたる。

 タイトルを検索にかけると、著者による記事にたどり着いた。
(以下、その一部)

 大半の「勉強できる子」は、素朴な知識欲や好奇心から、もしくは目の前の問題を解いて正解するゲーム的な面白さ、達成感を求めて勉強に励んでいるような気がする。
 周囲のクラスメイトに良い成績をとったことを告げれば、「自慢か」と嫌味にとられ、白い目で見られる。勉強ができるがゆえに肩身の狭い思いをし、できるだけ自分からは周囲に成績を言わないようになる。あまつさえそれを隠すようにもなり、鬱屈した、"卑屈"な態度をとる子どもになっていく。

 じぶんのコンプレックスを、初めて言語化された。ただそれだけのことがうれしくて、号泣した。久しぶりに、安心で泣いた。 

 この気づきは、誰のためでもない。そしてその性質ゆえ、たとえ大人になっても、他人との話のネタにできるものでもない。「できない」というコンプレックスとの、ひとつの違いだとおもう。

 どちらがより苦しい、という話ではない。

 たしかにそこにあった ”わたしの苦しさ” を抱えてあげられるのは、わたしだけだ。この積み重ねは、必ずじぶんをしあわせにする。

 そして、しあわせはまわる。

 20歳まで、あと93日。