破廉恥憧憬紀 七

 我々が水筒を設置して以降、カメラに映る景色に変わりはなかった。あれから、ぱたりと花瓶は動かなくなったのである。実戦形式の打撃練習が如く、疑いが確信に変わったあとも我々は攻めあぐねていた。
 練習終わりの誰もいない夜のグラウンドで、我々は自主練習の傍ら、打開策を模索していた。高島の誘いであった。
 「やはり柳沼さんか教頭かのどちらかだろうが、証拠を掴めていない現況では、はぐらかされるのが関の山だ」作戦決行が二日後に迫り、私には明らかな焦りが滲んでいたが、それが何に対する焦りなのかもはや分からなくなっていた。
 「おいおいそんなものか」高島は手がかりの掴めないこの状況を不思議と楽しんでいた。打球も勢いがよい。
 「なぜにお前はそんなに楽しげなんだ」
 「何を言っているんだ。我々の聖戦は阿呆そのもの。いかなる状況も楽しくないわけがない。ここで焦って何になる。俺は女を抱く前に、お前に哀念を抱いてしまいそうだ」
 「そんな馬鹿を言っている場合か。ここで作戦遂行をしくじってみろ。二つの不発弾がこれまで以上の広範囲で縦横無尽に駆け回ることになるぞ」
 「それは恐ろしいな」
 高島はけらけらと笑い、自らが打ったボールを拾いに行った。「では、ここで止めておくことにするか。もう遅いからな」
 「おい、まだ俺が打っていないぞ」
 「大貫が来る。それに…」
 「それに?」
 「炭酸が飲みたい」

 自主練習を終えた我々は校門へ向かって歩いていた。右手には暗闇に沈む体育館があり、奥にロータリーを備えた校舎がぽつぽつと明かりを携えていた。時刻は夜八時をまわっていた。
 「もういっそ大貫に頼んだ方が早いのではないか」私は自棄になっていた。
 「正気か? 大貫は生徒指導担当だぞ?」高島は炭酸飲料を喇叭飲みしたあとで曖気を放った。「何と言って頼むんだ。どんな理由であれ許されるわけがないだろう」
 「それともはったりを利かせるか。証拠映像のでっち上げなどいくらでもできる」
 「おいおい狂ったか」
 「しかしこのままでは作戦遂行が叶わないぞ」私は頭を抱え、足を止めた。目の前には職員室の明かりがあった。
 「まあ待て。小さなきっかけで流れが変わるなんてことは、野球部の俺たちが一番よく分かっているではないか」
 私の表情が曇るのとは対照的に、高島の顔は実に晴れやかであった。私は憎しみさえ覚えそうであった。
 くだらない問答を続けていると、職員室のカーテンが開いた。そこにいたのは大貫であった。
 「大貫先生」
 大貫は皆様が想像する、体躯のよい昔ながらの生徒指導担当ではない。理知的かつ論理的であり、事案発生時は極めて冷静に問題を解決へと導く。生徒を叱る際に声を荒げることもなく、淡々と追い詰める。「大貫に叱られるのなら仕方なし」と生徒たちに言わしめるほどであった。優秀な教師であるのは誰の目から見ても明らかであったが、底の知れない男であるのもまた事実であった。
 「こんな時間まで何をしている」
 「自主練習をちょっとばかり」高島はへらへらと返す。
 「そうか。こんなに寒いのによく頑張るのだな」大貫は意外にもすんなりとこの状況を受け入れたようだった。
 「ところで、先生はこんな遅くまで何を?」
 「立場上やらなければならないことが多くてな」
 私はここだと思った。「動画のチェックといったところですか?」
 「おい」高島の声は我々には届いていなかった。
 「何のことだ」大貫は怪訝そうに私を見た。
 「いや実はね、今うちの学校で盗撮事案が発生しているらしいんですよ」
 「何だと!? そんな話はどこからも出ていないはずだぞ」
 「そうでしたか。生徒指導担当の大貫先生なら何かご存じかと思っていたのですが」
 大貫の手が僅かに震えるのを私の目は捉えていた。それがこれまでにない重大事案発生に対する怒りなのか、自らの罪を暴かれることへの慄きなのか判然とはしなかった。ええい、言ってしまえ。
 「まさか、大貫先生では…」
 「おい、さすがにやめておけ」高島が割って入ってきた。
 「ここではっきりするなら、それがよいではないか」
 「阿呆が過ぎるぞ。やり過ぎだ」高島はそう言って、私を大貫から遠ざけ校門へ向かっていった。
 「大貫先生、大変失礼をいたしました。こいつはとんだ阿呆でして、時折こちらも理解しかねることを言い出すものですから、困っているところなのですよ」
 高島は「失礼しまーす!」と言い放ち、私を引きずって校門を出た。

 「お前は何をしているんだ!」校門へと引きずり出された私に、高島は声を殺して言った。声音には怒りや焦りがふんだんに含まれていた。
 「僅かなきっかけで流れが変わると言ったのはお前だろ。俺は自ら流れを変えようとしたに過ぎん」
 「雑で強引だと言っているんだ馬鹿たれが」
 「”聖なる前夜”は明日だぞ。別の手を試みるしかない」
 「いまさら無理だ。明朝に賭けるしかない」
 「いざってときは学校に隠れよう」私が蹴った石がころころと心地よく転がっていった。
 我々は明日の幸運を祈って駅で別れた。
 高島の家は駅の近くに住んでいた。父は地域を支える有名企業に従事しているらしく随分とよい暮らしをしていた。家族仲もよく、高島の両親は練習試合によく顔を出した。彼が家族から愛されていることは私にもよく伝わった。そんな男が私とともに腐りきった阿呆に興じているのはいささか理解不能であるが、私はこの存在に感謝すべきであろう。
 何としても、「バレンティンチョコ大作戦」を遂行する。満点の大花火を打ち上げるのだ、と私は心に誓った。


 翌朝、事態はあっさりと好転した。
 カメラに映っていたのは、大貫の姿であった。


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