神との対話と言う映画を見て(加筆版)

自らを「神」と名乗る紳士が、疑信を持ちつつあるクリスチャンの純粋な記者に、「インタビューしてくれ」と依頼する。

記者は元兵士で、PTSDに耐え切れず、一夜の間違いを妻の妹としてしまう。謝ろうと赦してくれない(それはそうだろう、と見ていて思った) 妻と、義兄を愛しているが、まだ彼を愛する姉の為に、何とか蟠(わだかま)りをなくして普通の生活に戻ろうとする妻の妹。

面白いのは、大きな罰当たりが主人公なのだ。人間、皆、バチ当たりだ。
表と裏があり、不倫を犯し、自己中で嘘をつき、祈りを忘れ、それに対して妻(夫)の怒りを恐れる。

仕返しに、妻は愛してもいない昔のボーイフレンドと不倫の罪を犯し、そのせいで妻の一度の不倫と共に喧嘩が増え、彼自身のさらに悪化していくばかりのプライベート。
だが、彼は祈れない。神に何が分かる、とAGNOSTIC (不可知論者)になっていた。
悩みながら、彼は軍人友達のPTSDの相談にも乗り、彼は周囲に厳しい社会が彼等をただひたすら問題に問題を重ねて抑え込むのを感じながら、自身が鬱病へ向かっているのを感じる。

親友に
「神を信じろ」、
と言われ、
「希望を持て」、
という彼の会社の友人も、あの神と自分を呼ぶこの紳士の言葉も、彼は信じられない。彼はただ、
「時間がないんだ、救いについて話そう」
という神の言葉に心が騒ぐ。
彼は自分の死ぬ時が来たかと勘違いする。
神は、
「私がお前の前に来てるんだ、何か話をしなきゃだめだろう」
と対話を即すも彼は受け容れられない。
不信=恐怖ってその通りだと思う。
ココで神が言われる
「対話」
とは、
「祈り」
を意味する。

クリスチャン雑誌の記者である主人公は、荒れていく社会に涙が止まらない。名も知らぬ国で殺された軍人達に悲しみ、
「何故、好い人に悪い事が起こるんだ」、
と神に詰め寄る。

「その質問を待っていた。
お前は純粋な好いクリスチャンだ。好い人にも、悪い事は、沢山、発生する。社会は卑しい世俗だ。其処に我々は住んでいる。好い人にも悪い日もあれば、悪い事は起こるんだ。君のせいじゃない。誰のせいでもない。
ただ起こるだけさ。だから、自分がまずそれに対処する前に受け容れてしまえ。
こう言う事は起こるんだよ。
但し、人は殺され、子供はさらわれ、ごみは重なり、地球は汚くなる。
何故なのかを考えて、世に問え。
なぜ君らは自分たちを見詰め直さないのだ。
まず自分で現状を受け容れたら、解決方法を探すんだ」。
神は言った。逆に神に
「考えろ」、
と詰め寄られ、
「考え、そして私に話せ」、
と謂われる。私自身が観ていて考えさせられた。

映画の中で神は言った。
「私は愛しい我が子等の為に、積極的に活動する。聖書を最近読んでるか?
神の救いは全てについて一番重要なんだ。お前は、私に、いつ、最後に話しかけた?不可知論者になる前?違うだろう。先週叫んだじゃないか、
『神様、ホントにいるなら助けてくれ』
って」。
コレは痛かった。主人公ではなくて、私自身が殴られた気がした。最近、真摯に「祈って」いないな、と考えたりする私…。

神は主人公の記者に謂う。
「お前が見ようと思えば、私がお前に話したいサインはそこら中に見えた筈だ。何故かって?お前が祈っていたじゃないか。私に話せたらどんなにいいだろうって。何時(いつ)私が電話した?ここは何処だ?こんなところに来いよ、とメールしたか?私は神だ。お前に直接話してるのだ。分からないか」。
彼には、返す言葉がない。
「お前が見ようとしていないだけだ。お前は自分中心に世界が廻りにあるのをきちんと見て活動しなきゃ、だめだ。
まず、自分の生活を正しくしなきゃ。
そして自分の周囲を助けてやれ。
自分を律して責めてばかりでは、君の周囲の社会は良くならない。
まず、プライベートを整えて、真ん中に自分がいるようになれなきゃ、廻りに取り組むなど、だめだ(どっかの誰かさんを思い出しましたね、@マスハゲ様)。
サインは私が出す。それまで、君に指さすサインが理解出来るまで、それまでに自分を立て直すんだ」。

…凄く好い言葉だった。神のアドバイスだ。神は待ってくださるのだ。
頭を軽く神の御手でひっぱたかれたみたいな感じ。
「こりゃ。目を覚まさぬか、この愚か者🙄」、
とジーザスが言ったみたいに感じた。

「真実の信仰」、「真摯な祈り」って何か、考えた。
大体、私の周りで、失敗する私をさも偉そうに、蔭口を利いて責める
「教会に長くいればクリスチャン」
と思ってる馬鹿者達に比べたら、私は神に対して素直だと思う。
神様は私を守りながら言う。
「本当にお前が用意出来るまで時間を取り、待つんだ。
今は用意できていないよ。自分の今を見てごらん。
彼も用意は出来ていない。
用意が出来たら、サインが見えるようになるから、それまで待つんだ」。

そう謂われるのは分かっていたから、そう謂われるのが嫌だった。
何もかも旨く行かないと思っていた。仕事もまだ見つからないし、何も出来ていないと。とても悩んでいた。私の様なのは死ぬべきだと思っていた。役立たずだし、別教会へ行った女に態(てい)のいい侮辱を受けたし、心に憎しみが残っていて、私はおよそ許しが得られる筈もなかったし、好きな男の愛を貰える純粋な女でもないように感じたものだ。

今夜はこの映画のお蔭で、それを真摯に向き合って、神に話した。
ホントに好い映画だった。
自分との向き合いっこって難しい。

でも、神と一緒に毎日やって行かないと、って思った。

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