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【二人のアルバム~逢瀬⑫~鶴亀~】(フィクション>短編)

§1. 鶴亀
彼女は亡母の残した小紋の着物を着ていた。東銀座の歌舞伎座前で、待ち合わせしていた。

彼と待ち合わせする事は多かったが、今回、清水の匠修右たくみおさみ和尚は、
「清水から禅宗の学習会の集まりで都内に出て来るんですよ。だから、歌舞伎座の近くの和風の茶店ちゃみせで、お茶と甘いモノは如何ですか、芝居帰りに寄る人が多いんですよ。美味しい餡菓子を出す店で、中庭が綺麗でね。ワケの分からん事を禅問答しましょう(笑)」
と誘ってきた。

当初、「和尚様」と呼んでいたが、匠は50代で紳士だった。生臭い印象がなく、彼は匠の事を嫌がっていたが、最近は彼女も「匠さん」、と呼んでいた。

彼女は今日の外出について彼には話していなかった。彼は焼餅焼きで、結構、説明や何かに手こずるからだった。彼はいつも彼女を傍において、彼女をリードしてくれるし、彼女には彼のそんな態度は嫌ではなかった。ただ、彼の仕事の関係で、なかなか彼が彼女と逢う事が出来なくなると、何日も放置されているようで、彼女は寂しくてつらかったが、他の人との外出を喜ばなかった。

匠が彼女を誘った時は、ちょうどそんな時で、不憫に感じた匠が、彼がいない時に彼氏の代わりに彼女をリードしてくれる事に、有難さを感じていた。

最近、匠の出稽古で匠に誘われて、稽古へ行くのを知っている、お茶の稽古友達で匠と共通の友人である、佐野東子さとうとうこが、彼との事を心配して、
「あんまり彼が通るところ、行かない方がよくなくって? 彼、和尚様の事、面白く思っていないんでしょ」
と案じた。

匠が彼女を個人的に訪ねるのはこれが初めてで、匠は彼女に彼氏らしき男性がいるのを充分知っていたようだったが、お茶を呑みませんか、とお誘いが入った。丁度、その際に彼は出張中だったので、彼女は快諾した。

薄黄色の訪問着で、法事用の飾りがない和服を着て、歌舞伎座の数段の階段前に立っていたら、丸めた頭にソフト帽をかぶって和服のコートと訪問着を着ていた匠が彼女を見つけて、笑顔で手を振った。
「やぁ」
そこに立って微笑んでいる紳士が、彼でない事が鈍い痛みに感じて、彼女は胸に痛みを憶えて少しよろけた。彼の存在はそんなにも彼女の中で大きかった。
匠が彼女の身体を片手で支えた。
「あ、大丈夫ですか」
「匠さん、大丈夫です。遅くなってしまって。ごめんなさい」
「いえ、いえ、じゃ、行きますか」
軽く腕を支えてやりながら、大階段を下りて、東銀座の通りに出て、少し歩いてから並んで小路に入った。
小路で右に曲がって直ぐに、古い作りに見せた木製の店舗で赤い大きな看板が見えた。
「和風菓子 鶴亀茶屋」

それは、丸で江戸時代の茶屋の店頭に居るようだった。仲居は皆、赤い前掛けに揃いのかすりの着物で、髪の毛を赤い布で後ろで結び、茶と甘いものを乗せた盆を軽々と二つ、三つ、抱えて運んでいた。
「いらっしゃいませ。中に致しますか~」
着物の女中が匠を見た。
匠がソフト帽を抜いで頷くと、仲居が先に立って案内した。

外から見ていると、店の外側にベンチが数個、店の前に在り、散り散りに客が赤い布が架けられたベンチに座って熱い抹茶を呑みながら、黒いニスが塗られた四角い盆の上で、甘い菓子を食す事が出来るようになっていた。小さい看板で、「お休み処」とあった。匠が、女中に続いて、にこにこしながら、店のドアを指して中に入った。
「歌舞伎の舞台みたいでしょ。奥の座敷に茶室が或るんで、茶室でお茶をたてましょう」
と言いながら、女中にそう言った。女中は頷き、2人を店内に案内した。

店内は思ったより奥があり、座席は皆、赤いテーブルクロスが架かっていた。天窓から陽の光が入って明るかった。舞台で見た事のある様な知られた顔の歌舞伎俳優が、記者らしい格好の女性と、携帯テープの様なモノを間に話し込んでいたり、奥の茶室は小さな入り口から内側が少し見える程度で、俄か茶会にはピッタリだった。全て開放感があり、彼女は
心なしか安心した。

奥廊下があるような店に見えなかったが、天窓から陽射しが入り、赤い前掛けを付けた着物姿の仲居が案内してくれて、8の字が横になった∞(無限)マークのついている藍色の暖簾のれんの部屋に入った。座敷部屋には何もなかった。

仲居が一番後で、二人の草履をそろえて中に入り、お茶の為の湯とお茶具を匠の前に用意した。ふかふかな座布団を二人にすすめ、菓子のメニューを持って参ります、と出て行った。

匠が主人の座に座り、客の座に彼女が座って、茶碗を見たり茶稽古の話をしたりしていると、仲居が来た。
「お菓子はどうなさいますか」
匠は彼女に、
「ここは茶菓子がとても美味しいのですよ」
仲居が頭を下げてにこっと彼女にわらった。
「じゃ匠さんのお勧めを戴きますわ」
と彼女が言うと、匠が心得た様に、
主菓子おもがし栗羊羹くりようかんと酒饅頭、後程、薄茶に干菓子ひがしで落雁の可愛いのを」
彼女に承諾を目で求め、彼女が頷くと、
「畏まりました」
仲居がメニューを手に部屋を出て行った。

湯を窯に移して、匠が茶を作り始め、ほぼ同時に和紙で飾られた和菓子が黒い盆で持って来られて、二人で天窓から注がれるキラキラした日光を浴びながら、和菓子を先に戴いて、濃茶を味わった。
「おいしい」
とつぶやいた彼女に、匠がほほ笑んだ。

黒い盆に赤い布が架けられて、お品書きがあった。その横に小さいお品書きより大きな主菓子が濃茶の請けとして飾られていた。外から美しい栗羊羹、そして結構大きく、店名が焼き付けられた饅頭には、餡がたっぷり入っていた。どちらも一つずつ、和紙の上に載っており、菓子を切る竹の菓子切りがついていた。

まず見た目を見てから、菓子切りで取分けて少しずつ戴く。一口戴いて、懐の和紙で菓子切りを拭き、濃茶を後に戴く。

茶室と謂うのは精々花が一輪ほど飾られている事が有るくらいで、目立たないミニマリストの世界だが、日本の美はこの目立たない美しさにあると思う、と彼女は匠に話し、匠がニッコリ頷いた。

§2.自宅
夕方遅くに自宅のアパートに着き、キッチンで紅茶を入れて寛いでいると、彼が電話してきた。
「お久しぶりです💚」
「よぉ」
「最近お忙しそうよね」
と言った彼女の声に全く答えずに彼が少し低い声で続けた。
「ねぇ… ちょっと話が有るんだけどな。今、何処?」
「…自宅ですけど…」
彼の話し方はまるで上から抑え込むようだった。
「○○市のかすがい町だよね」
「ええ。…どうしたの?そちらの近くにでも行き—」
西新宿の彼の勤め先近くにでも行こうかと言いかけたのを彼には珍しく文末で切って、
「いや。俺が行く。本部長が車貸してくれたから、今から迎えに行く」
「…迎えにって、何処に行きたいの」
「車の中で考える。8時に着くよ」
電話が切れた。

切られた電話を、彼女は、暫く、眺めていた。
今までで一番圧力的な響き。
東銀座で何をしていたのかしら。

8時ピッタリに彼女のアパートに着いた彼は、自分の持つ彼女の部屋の鍵を使って中に入ってきた。

暫く、そこらじゅうの扉や襖を開けては扉の向こうを確認した。振返った彼は、
「今日、午後、3時ころかな。何処にいた」
あぁ、見られちゃったか。彼女はそう思った。
「…東銀座かしら。何故?お茶の先生とお茶を―」
「お茶って火曜の夜だろ、東子さんと。然も、2人きりで。誘われたのか」
彼が珍しく声のトーンを上げた。驚いた彼女は彼の眼を見た。
怒っていた。目が燃えたぎっている。
「…お茶しただけよ」
彼女は呟いた。
彼女がふと感じたのは、彼がいない間もこうやって監視されるのか。
「何処へ行ったんだ?」
「東銀座の、劇場裏の鶴亀さんってお店」
「個室だろ?」
「甘いお菓子付きの扉のない茶室然、とした部屋よ。
お茶稽古の出来る喫茶室って珍しいでしょ。
扉なんて、元々無くってよ。今度、一緒に行きましょ。
それに、私、和尚先生にあなたに逢えないから、禅問答の話を伺っていただけ…」
匠さんとは言わずに和尚先生と呼んだ。
彼は突っ立ったままでこちらを睨んでいた。眉間の皺が深い。
彼女は彼の目の前まで行った。
「何でそんな顔で私を睨んでいるの」
彼の腕に手を架けた。
「…私が愛してるのはあなただけよ。…焼いたの?」
彼女は彼の厚い胸に手を架け、頚から頬に下から上に撫で上げた。
「…。知らん男と東銀座の裏通りの小路に入って行ったから」
彼は赤面していたが、彼女をきつく、抱きしめて、不満げに呟いた。
「俺がいない間に、背高のっぽの生臭坊主と浮気してるって」
「浮気…」
彼女が噴出した。
「お茶を和菓子を一緒に戴いただけよ」
目を丸くした彼女に、
「分かってるけど」
彼は頷いた。彼は彼女を胸から離して、着ていた上着を脱いで、書斎代わりの彼女のキッチンテーブルの横にある、パソコンが載せられたポータブルデスクの上に上着を置いた。
「あの後、仕事が全く頭に入らなくて…。銀座支部の奴が送ってくれていて、車からちらっと見えて…。
何とか業務終えて、本部長がリンカーンのSUV貸してくれたんで、本社から飛んできた」
彼女は彼の頬を両手で包んだ。
「いやねぇ。焼餅、焼かないで」
彼は自分の横に来た彼女の顔に自分の顔を近づけ、
「キッスとか、俺とだけだよな」
彼は彼女を抱きしめ、口づけた。
軽く口を離して、彼女は本気で少し怒った声で言った。
「当り前じゃない」

機嫌が少し治った彼は彼女とワインを呑んで最近のあれこれを語り合い、
久々に愛情豊かな顔つきで彼女を自分の膝の上に抱きとめた。
彼女が冷蔵庫に置いていたサーロインステーキをさっと用意して、彼に食べさせると、彼の機嫌はもうどこ吹く風の様ににこやかになった。

キッチンのシンクで皿を洗う彼女の後姿に引っ付いた彼の顔を振り返って覗き込んだ彼女は、彼の腰を自分の腰に近づけて彼の肩を抱いて、言った。
「今夜は?」
彼女の頚や頭に口唇を這わせながら、ため息をついて、
「泊まろうかな、もう頭に仕事なんてとても戻ってこないし。
朝の7時前に出る事にして」
と彼が言った。

「今度さ、渋谷あたりに引っ越ししたら?
俺がマンション、用意するからさ」
もう住んで何十年のアパートを煙たそうに見ながら、
「綺麗で新築のマンション、探すよ」
彼が彼女の胸のところでごそごそしている時にそう囁いた。

彼女は黙って、されるがままでいた。飼い猫が棚の上からにゃおん、と一声鳴いた。

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