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27歳、私の課題

先日、私は27歳になった。
27...なんだか遠く感じていたこの数字は
あっという間に自分のものとなった。
この数字にまだ実感が沸かないというのが正直なところだ。

私は年に1回、何か新しい事に挑戦する事を決めており
それにはお金がかかる事もあったし、本当に些細な事もあった。

何にチャレンジしようかと考える時
私は自分の経験則から俯瞰する事が多かったのだけど、
自分には足りない物が多いと感じる事がほとんどだった。

これに挑戦するには○○が足りない。だから○○を身に付けなければとか
こうなりたいけど今の私はなれない。だから変わらなきゃならないとか。

どこか強迫観念みたいなものがあって、自分の自信の無さを
誰かや何かのせいにしていた時期もあった。

でも、27歳。ここへ来て悩みのタネが変わった。
年を重ねたことにより、思考が落ち着いてきたのかもしれない。

今は足りないものがあるからと言って
無理をしてそれを得ようとする事よりも
いま自分が持っているもので自己を成長させる事は出来ないのかという壁にぶつかっている。

私は今まで自由を強く欲していて、それを軸に行動をしていたつもりだったが、今の自分では自由にはなれないという気持ちが
理想を願う気持ちと同じくらい強かったのを覚えている。

自由はなんだか怖くて
収入はどうなるのか、生活は成り立つのか
こんな自分が自由に生きる事は
社会で肯定されないのではないかと不安であった。

私はそんな自分の中の不安を消す為に行動をした。

でも、行動すればするほど不安は形を変えて現れ
それと比例するかの様に問題は大きくなっていた。

来るところまで来た暁には
解決せねばならない問題から逃げ続けた代償が大きく残り、
必死に身に着けた知識や経験は
頭の隅に小さく置き去りにされたままだった。

わたしはきっと
こんな自分でも肯定してくれる世界に住み、
こんな自分を自由にしてくれる環境で生きていきたいと
完全に受け身になっていたのだ。

”自由になりたければ、なってしまえばいい”
”死ぬほど嫌なら、一回死んでくればいい”

この言葉は、私がいつもお世話になっている恩師からの言葉だ。

自由になりたければ、自由を選択すれば良いし
肯定してほしいなら、自ら自分を肯定すれば良いのだ。

分かってはいるけど自信が無く、その答えから逃げ続けてきた。

自由になる為に必要な手段の一つとして
自分にとって死ぬほど嫌な事もあった。
でも、そこは自分が勇気を出して行動すれば乗り越えられるものでもあり
その勇気が足りないだけであるのだ。

その手段を選ばずに自由を手に入れたいと藻掻いていたが、
それはまるで
真っ暗なトンネルの中で、いろんな事に希望を見出すのだけど
結局出口を見つけられず時間と体力だけが消耗していく様だった。

ここまで書いて、こんな結論を出すのはどうなのかと思うけれど
きっとどんな選択をしても正解なのだろう。

違った選択をしていたら、今の私はまた違った生き方を選ぶ。
だからこそ、今までの失敗と多くの損失は決して無駄ではなく
その時の自分の選択は間違いではなかったのだ。

欠乏感からくるものから新たに挑戦してみるのもよし、
今持っているものからさらなる成長に向けて挑戦してみるのもよし。

私にとって手を出しやすいのは欠乏感から来るものだけど
それは今までがそうであったから故に
今あるものを使って
さらなる成長に繋げるという事は少し苦手な分野ではある。

その苦手に挑戦をすることが27歳の課題なのかもしれない。
自分の身体と知識を使って、自由と肯定を見つけていきたい。

人生の中で一度くらい、死ぬ気で生きてみようじゃない。

きっとどんな生き方も正解。

27歳、自分の中の自由の拡大に挑戦だ。

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