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生まれて初めて親からもらった贈り物に、一生支えられてく自信がある。

前日や昼にnoteのネタがさらりと通り過ぎた記憶はあるのに、
書く頃になったらカケラも覚えていない、
ということが一度や二度ではありません。

まるで、起きた直後は鮮明に覚えていた夢を、
数分経ったら跡形もなく忘れ去ってしまっている感じとそっくり。

案外、人間って、起きてる時も寝てる時も、
脳みその働きって大して変わらないかも。
なんて思ったり。思わなかったり。

と、いうわけで、
確かネタを入れておいたはずの脳みその引き出しを開けたら何も入ってなかったので、今日は珍しく、「#名前の由来」というお題で書いてみます。

仮名は「すみぃ」。真名は「純栄」という。

昔々の日本では、本名を真名(しんめい・まな)といい、
軽々と人には明かしてはいけない、という風習があったと言います。

平安時代の帝の名前や、貴族の名前が、
明石の中宮(あかしのちゅうぐう)とか、
頭中将(とうのちゅうじょう)とか
六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)とか
(全部「源氏物語」から)
住んでいる場所や役職で呼ばれていたのも、
その頃はめっちゃ陰陽師の時代だった、という時代背景を思うと、
なるほどな、と思ったりもします。

日本だけではなく、海外の伝承でも、
妖精や悪魔の「名前」を当てると相手を無力化できる、
もしくは支配することができる、
というようなおとぎ話は世界中にあります。

有名なところでは、アレですね。
孫悟空の中に出てくる金角銀角の話。
名前を呼ばれて返事をすると、魔法のひょうたんの中に吸い込まれてしまう、という話です。

ということで、名前、特に本名には、知られると相手に自分の情報を全て把握され、下手したら支配されてしまうほど、情報が詰まっていて影響力の強いものだ、と信じられていたのですが、
それほどまでではなくても、あながち嘘ではないかもしれない、
なんて、最近は思います。

純栄の名前はじいちゃんがつけてくれた。

私の名前は、父方の爺ちゃんが、
えらい張り切って考えてくれた名前だったらしい。

今は結婚して苗字が変わったのだけど、
姓名判断をしてみたら、ちょっとしばらく結婚したくなくなるような、
恐ろしく画数の良い名前でした。

まぁ、盛り込みすぎたのか、おかげでなのか、
良くも悪くもとても波乱万丈な40年を送ってきましたが(笑)

純栄、という名前自体が結構派手だと思うのですが、
それに輪をかけて派手な苗字が付いていたので、
私は結構、自分の名前が気に入っていて、
苗字が変わった自分を想像できませんでした。

結婚して、苗字が変わったら、姓名判断の中身も少し落ち着いて、
日常もかなり穏やかな感じに変わりました。
(相変わらず見た目は派手な名前ですが)

爺ちゃんがつけた、
めっちゃ考えてつけた、
ということだけ覚えていて、
実は私、自分の名前の正確な由来は知らないのですが、
スピリチュアルに足を突っ込んでまもない頃、
自分の名前には魂の形が刻まれている、とか、
人生を通して流れるエネルギーがある、とか、
色々聞いて、自分の名前をあれこれ分析してみたことがあります。

ひらがなで書いたり、漢字で書いたり、
他の漢字をあててみたり、
並べ替えてアナグラム(他の言葉)を作ってみたり、
漢字一文字ずつの意味を辞書で調べたり。

その時にとっても気に入って、もう20年、私の柱になっているのが、
「純粋の繁栄」です。

純栄の「純」が純粋の「純」。
純栄の「栄」が繁栄の「栄」。

純栄の「純」は、幼い頃から守り続けてきた灯火。

小さい頃から、「不思議ちゃん」って言われてきました。
その頃は、まだ「不思議ちゃん」って言葉は無かったので、
「夢見る夢子ちゃん」って言われてました。

よく言えば「素直」。悪く言えば「鈍臭い」。
いつも考え事をしていて、みんなからワンテンポ遅れて動く子でした。
(それは、実は今も変わってない;)
言われたことを言葉通り真に受けて、勘違いをしたり悩んだり、
何度も傷ついたりしてきました。

純粋の純は、私を生きづらくもしたけれど、
小さい頃から、どんなに悔しくても、悲しくても、
絶対に変えたくない、失いたくない、と、守ってきた自分の砦でした。

大好きな幼稚園の先生たちや、お母さんやお父さんが、
私の良いところ、として、褒めてくれたところだったから、
私にとって、自分の「それ」は、宝物だったし、間違いなく、才能だった。

今でも覚えているんです。
中学校の頃に、自分の中にある「それ」のパワフルさを自覚して、
持て余していたこと。
「それ」を出し尽くすには、幼い私は能力も地位もあまりに無力で、
桜の盛りのように、溢れるように自分から湧き出しては
空に消えてゆく「それ」を自分でも驚嘆しながら惜しんでいたこと。
言葉にも行動にも表現しきれない「それ」が、
今(10代)が最盛期で、今後どんどん衰えてしまうと予感していたこと。

だから、大事に大事に護ってきた。
灯火が消えていないか。
まだ、まっすぐなままか。

それが、私の中の、「純」。

ありのままに純粋に、満開に咲き誇れ。

そんな、小さな小さな灯火のように大切にしてきた「純」だけど、
それが、ブレない私の核だから、
いつか、大樹の桜のように、満開に咲けばいいな。
そんな人生に、なったらいいな。
純栄の「栄」は、繁栄の「栄」。
そんな願いを込めて、私は自分の名前を書くようになった。

その頃、私は、演劇ワークから派生した、
表現ワークショプを主催していて、
演劇でもセラピーでもない、
自分独自の目的と方向性を持って進化したそのワークショップに、
名前をつけようとしていた。

どんな人でも、ありのままは素晴らしい。
ありのままを輝かせた時、人は一番美しい。

そんな信念がそこにはあった。

なので、私は、その、自分の表現ワークショップに、
自分の名前を由来にした名前をつけた。
それが、
「ありのままに咲き誇るワークショップ」
でした。

さらに、なんだかんだで10年続けてたアメブロのタイトルは、
「ありのままに咲き誇るブログ」
でした。

そして、月日は流れて、
私は、教員を退職し、自営業者として開業することになった。

別に、雀の涙ほども収入が無かったし、増える見込みも無かったんだけど、
とりあえず、生半可な気分じゃ戻れなくするために、
退路を断つつもりで、開業届を出した。

屋号は、実は3ヶ月ぐらい前からずっと悩みぬいて決めた。

今でも使っている、私の大切な屋号。
あんまり、表に出ないので、知らない人もいると思うんだけど、
私の屋号は、「心の寺子屋 PURE BLOSSOM」といいます。

こころのてらこや ピュア ブロッサム。

心のことを、気張らず学べる、学び合いができる学校のような場を作りたい。そんな願いを込めて。
「ピュア ブロッサム」の意味は、
「純粋」の「繁栄」です。

自分の名前を愛せるということは、幸せなことだと思う。

ここまで2500文字も書いてきて、
あまりにも自分大好きが盛られすぎてて、
若干自分で自分に引いてきてるんだけど、
大丈夫だろうか(汗)

ここまで書いちゃったから、書ききるけど。

と、いうわけで、
小さい頃から、何度も何度も、私はこの名前に支えてもらった。
中二や高二の頃、大学二年の時にもグレそうになった。
結構、ダークネスな闇落ちをしてたけど、
その時にも自分の中の良心みたいに、「それ」はいた。

教員採用試験を受け続けていた時代や
教員になりたてで必死だった頃、
私のアイデンティティを護ってくれたのは
「ありのままに咲き誇るワーク」だった。

教員を退職してから、孤独に奮闘していた私の伴走者は、
立ち上げちゃった屋号、「心の寺子屋 PURE BLOSSOM」だった。
そうやすやすと降ろしたくない、
渾身の旗だから、どんだけどん底でも、この旗だけは降ろさなかった。
降ろしちゃおうか、って、本気で悩んだこともあったけど、
結局、降ろさずにここまできちゃった。

こうして振り返ってみると、
私は、この、親からもらった名前に、
どれだけ人生を支えられてきたかわからない。
そしてこれからも、この名前に支えてもらう気、満々である。

そう、意識していたから、そうなったのか、
それとも、名付けられていた瞬間から決まっていたのか、
それはもう、わからないのだけど、

間違いなく、私は、「純栄」という名を生きているな、と、
最近つくづく思うのです。感謝。


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