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第四次延長での主張

今の日本では、『ポエム』というと、「ちょっとイタイ」「自分語り」的に揶揄する傾向がある気がしていて、なんか悲しいなあ、と思うことがあります。

でも、なぜその雰囲気を悲しいと思うのか、感覚的にはわかるんだけど、ちゃんと言語化して理解できていない感じがしてもやもやしてました。

が、この動画を見た時に、その言語化できず、もやもやした感覚にちょっと光がさしたというか、気付きを得た感じがしたので、備忘録的に、noteに書きたいと思います。

もともとは、メディアアーティストの落合陽一さんの著書『デジタルネイチャー』とは、みたいな動画なのですが、この動画の7:30あたりで、批評家の宇野常寛さんがこんなようなことを言っていました。

「60年代から70年代のフランスのポスト構造主義の中で、言語の外側の世界(言語で表現できないもの)を言語で表現しようとしていたんだけど、それが最終的に詩になっていったのがフランス現代思想。」

なるほど。

つまり、言葉で表現できないものを言葉で表現したものが詩、つまりポエムである、と。言語外の世界というのは、アートや景色、精神的抽象的な世界ということかな。

また、こんなことも言ってました。

「世界は言語に落とし込むことで、わかりやすくなるが、分断されて、情報量が落ちる。」

多分、何か綺麗なもの(絵画でも、景色でも、写真でもいいんだけど)を見たときに、思わず「きれい」と思ったり、呟いたりするけれど、この3文字では、この時に感じた感覚や気持ちは描ききれない。(情報量が落ちる)

でも、「きれい」だったということ自体はわかりやすく明確に伝わる。

ということかなあ。


たぶん、もっと詳しくその「きれい」について誰かにわかってもらうには、実物を見せるか、言語外の表現(絵を描く、写真を撮るなど。音楽はより記号的な表現になるのかなあ。)を用いるしかないけれど、

この時に感じた言葉にならない「きれい」を、言語で表現したものが「詩」になっていくのだろうなあ、と。

つまり、「詩」は構造上、アートと同じなんだろうと思います。

今、趣味でも仕事でも、写真を撮ったり、ハンドメイドをしたりと、言語外の表現に片足を突っ込んでいる身からすると、

ポエムを馬鹿にされる→言語外の表現を馬鹿にされるという流れを感覚的に捉えていたのかもしれないです。

だから、ポエムを揶揄する風潮に、少なからず悲しみを感じていたんだと思う。

アートは言語外のものを言語外の表現で行っているから無理がないんだけど、

詩は言語外の表現を言語で表現しているので、より難解度が増して見えてしまうのかもしれない。

ポエムを揶揄の対象や例にする風潮は、言語外の理解できない表現を避ける風潮なのかもしれない。

だけど、世界は言語外の世界の方がたくさんで、言語外の世界にも美しいものがたくさんあるんだと思います。

言語を使うことで、世界を分断し、わかった気になるのはもしかするとちょっと不健全かもしれない。

アートの端っこにいる身として、わからないものをわからないまま感じられるように、写真を撮ったり、作ったりしていこう。

最後に、好きな詩を一つ。



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