シニフィアンの集合体

前回からの続きで、流れの中で。(ボリス・グロイス)を読んでのメモ。

ベンヤミンによれば、オリジナルの芸術作品は、いま、ここ、という一回性の性質をもつ。それを真正たらしめるものや、その行為が伝統的なオリジナリティの証明である。

だが、インスタレーション、パフォーマンス、映像作品などで表現される現代アートは、物質的ではなく、流動的な形態へと変化している。

複製の流れは美術館から溢れ出し、個人のアイデンティティはこの流れとなかで溺れる。インターネットはときおり、全てのアイデンティティがシニフィアンの無限のゲームの中へと溶解する

もはや、インターネットの中では、芸術作品と非芸術作品を区別する基準が判然としない。芸術家と鑑賞者の区別もつかず。余暇に楽しむ芸術、でもない。仕事と余暇の区別も曖昧な時代。

シニフィアンがただ漂う

意味は無化される

このような状況のもとでは、何が重要でアクチュアルな作品かを決定するキュレーターの役割はますます重要だ、と解説されている。

その通りだと思う。

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