日本語の構造

「これだけは知っておきたい日本語の基本」原沢伊都夫 著

を読んでのメモ。

言語は、それが使われている国や地域の文化や特徴、そこに暮らす人々の思考が深く反映されているという考えが、自分に一番身近な日本語を通じて体感できる本だ。

言語の構造について:

「サピア・ウォーフの仮説」という有名な言語理論があります。言語の構造はその言語の話し手の認識や思考様式を条件づけるというものです。言い換えれば、世界の人びとはそれぞれの言語の窓を持ち、そこから世界を見ていることになります。英語や中国語やアラビア語などの窓を通して外を眺める人には、それぞれの言語が形作る世界観が見えているというわけです。

言語はその世界を見るための窓となるのだ。

一例として、
日本語で、

1 私は津波に家を流されました。

という表現があるとする。

これは、
2 津波が私の家を流しました。
3 私の家は津波によって流されました。
などとも言い換えられるが、

これは、日本語を母国語とする人にとっては、
1の言い方がしっくりくることが多いのではないかと著者は書いている。

たしかに、そうかもしれない。

実は、1は、間接受身文といって、日本語独特のもので多言語には無く、日本語を学ぶ多くの外国人は、3の直接受身文になるのが普通だそう。

間接受身文は、
こういう出来事が身の回りに起きた。そして私はその出来事から影響を受けている。その時の、私は、その出来事を遠くから見つめているような私、というニュアンスだろうか。

他にも、
満員電車で足を踏まれた。間接受身文
満員電車で足が踏まれた。直接受身文

スリに財布を盗まれた。間接受身文
スリに財布が盗まれた。直接受身文

*直接受身文は、足"が"、財布"が"、と、格助詞が"が”となり、受け身の対象が主語となっていることが分かる。英訳すると、My foot was stepped on by a crowded train.となるのだ。

しかし間接受身文にはそのような主語は見当たらない。でも、おそらく、日本人は、いずれも上の間接受身文を使うのではないか。

自然現象を受け止め(しかたのないものとして、諦めの念も含め)それをどのように感じたかを表すのが間接受身文のようだ。
それは身の回りの環境が変動し、それに対してどう思うかという日本人が周りに対してどうコミットメントしているかの距離感が反映されているように思う。そしてそれは、日本人が古来から自然と共に生き、自然の現象を受け止めながら、生きてきたということが反映されているようだ。

英語と比較する下記の解説がある。

主語指向型言語である英語では、動作主に焦点を当てて、動作主が何かをするという表現をするのに対して、話題指向型言語である日本語では、動作主は表面に表さずに、あたかも『自然な成り行きでそうなった』というような表現を好むのである」

また、この書籍で解説している、
日本語は、日本語を学ぶ外国人へ向けた文法で、それは私たち日本人が通常の学校教育で学んできた日本語とは違います。

どこが違うかというと、
まず、
主語ー述語、という主述関係が基本的な構造であるとする、ということがそもそも違うのです。

では、どのような構造なのか。

主題ー解説

です。

主語と述語という構造で教えられている私たちは、格助詞の「は」「が」がつく部分が主語と考えます。すると下記のような文章は説明ができない。

「そのゲーム機は父親が買ってくれた」

??どれが主語??ゲーム機?父親?

この場合は、
ゲーム機、が主題で、
それ以下、父親が買ってくれた、が、
この文章でコトを解説しており、そのコトの中では、父親が主語となっています。

ある出来事があり、それをある視点(テーマ)から説明する。

それが日本語の構造のようです。

目から鱗の本。

この本は、日本人で、英語や他の言語を習得しようとしている人にとっても、日本語の構造を知ることが多言語の構造を考えるきっかけにもなり、より一層自分が学習しようとしている語学への理解が深まるのではないかと思う。


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