流れの中で In the Flow

「流れの中で インターネット時代のアート」ボリス・グロイス著(河村彩=訳)

永遠に残ろうとする、残そうとされる芸術作品は、物質的であり伝統的。
美術、美術館そのものが流動的になっている。                  美術館は、パーマネント・コレクションのための場というより、現代においては、キュレーションされたプロジェクトや、ガイドツアー、上映、講演、パフォーマンスの舞台となっている。 

この書籍では、「芸術の流体力学を問う試み」がなされている。

現代アートは、芸術作品というより、むしろ情報である。

という考え方で、現代の芸術をとらえることから始まる。

更に、本書のイントロダクションで示されている下記の考えは興味深い。

伝統的なアーカイブは、あるものを物質の流れから取り出し、救済して保護のもとに置く。この操作はベンヤミンによれば、アウラの喪失であった。物がコピーとなり、美術館にある作品はそのオリジナリティのアウラを差し引いた物。
反対に、デジタルによるアーカイビングは物を無視し、アウラを保存する。残っているメタデータ、いま、ここ、についての情報である。
デジタルによるメタデータは物なしでアウラを創造する。(注意:この引用は記載通りではなく、略を交えて編集している)

また、前半では、現代アートとは、どのような実践なのかということを、過去の芸術の歴史を丁寧に紐解きながら位置付けていく。

現代アートは
流れについて思考し、
現在の秩序をこわすことだ。

これまでの芸術の目的は知の遂行者としての役割であった。
カンディンスキーの抽象画は、アインシュタインの相対性理論におけるエネルギーの変化に言及している。
マルクス主義は、ロシアアバンギャルドに反映された。
シュルレアリスムは無意識の発見、
コンセプチュアルアートは言語理論。など。

そして、古典的なアバンギャルドは機械の側に自分自身を位置付けたことは重要である。マレーヴィチとモンドリアンからソルルイットとドナルドジャッドに至るラディカルなアバンギャルドたちは、機械のようなプログラムに従って自分たちの芸術を実践した

プログラムによって実践された、ラディカルなアバンギャルド、について、考えていきたい。

一方、流れの中で芸術を問うこの書籍の中で、ミシェル・フーコーが新自由主義の「人的資本」について、述べていたということに言及されており、その点も興味深い。

これは、芸術が、教育、そして経済への参加とつながるキーワードとして着目しておきたい。そのように、現代における芸術が、あらゆる人間の活動の流れの中で起こり、自身もその流れの中に呑み込まれていく、それは情報の中で組み込まれていくようなイメージであり、その視点から芸術、ひいては芸術のアーカイビング、価値づけについて考えていく上で、この本には、ヒントとなるエッセンスが多く詰め込まれている気がする。

もう少し読み進めてみよう。まずは、走り書きのメモにて。

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