詩、修辞の点での美
前回からの続きで「流れの中で」を読み進める上でのメモ:
今や誰もがインターネットを媒体として、セルフプレゼンテーションのできる時代である。
コンセプチュアルアート、インスタレーションアート、を考える時、現在は、誰もが自身の考えをその場(ウェブ上)を使って表現するという意味で、このインターネットの世界は、インスタレーションを行うアーティストで溢れていると言えるのかもしれないが、それでも、「芸術」について語られる理由は。
という問いだ。
グリーンバーグの「アヴァンギャルドとキッチュ」では、芸術や芸術家そのものより、誰がアバンギャルド芸術の消費者と考えられるのかが問われている。アートの物質的経済的土台は?という問いだ。アートは何でもってアートとなりうるのか、エリート階層だけのものではないという考え方だ。受け取り、消費する側からの視点。そして消費する社会は「大衆」なのだ。
また、本書で、とっても面白く読めるところが、コンセプチュアルアートは、言語である。ということが明快に述べられている「グローバル・コンセプチュアリズム再訪」の章。
こンセプチュアルアートとは、基本的にはインスタレーションで、個別の無関係なものを提示する展示空間から、それらのものの関係が第一に展示される。個々の名詞や動詞が文によって組織されるのと同じ方法で、ものと出来事はインスタレーション空間によって組織される。ヴィトゲンシュタインとフランスの構造主義がコンセプチュアルアートの実践に与えた影響は決定的だ、とのこと。
芸術を表現する、というより芸術活動によってその社会を体現し、批判し、見直すことが可能。それは、共同作業やワークショップを通じて、知的な教育的な活動となる。
ここは、肝心か。もしかしたら、「詩、修辞的な点」は、現代アートが、アートとして成立するために欠かせない要素なのではないか。
詩的な道具。
インターネットも、企業が利益のために作っていることを理解する。という視点。スクリーン、端末、ケーブルは工業製品だ、という視点。伝統的な、現実的な空間に配されるインスタレーションアートは、インターネットの画面を見ているだけでは見落としがちな、ハードの部分を再度確認することが可能である。
読み進めていくと、インターネット時代のアートについて語れているのにも関わらず、著者の視点は「リアリティ」なものに、より向けられている。その視点から、アートが社会の一つの要素としてどう語られるかを考えることができそうだ。
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