20231106「映画の冒頭は見逃したくない!ウルリケ・オッティンガー『フリーク・オルランド』」

ウルリケ・オッティンガー『フリーク・オルランド』を出町座へ観に行く前に、ファミマでフランクフルトを買って、ドアが開いてすぐ食べはじめて3口で食べ終わるというようなことをしていると、京大院生の東洋くんと遭遇。彼も『フリーク・オルランド』を観に行くと言う。喋りながら向かっている際、「こないだ来てくれたトークイベントどうやった?」と聞くと「場を支配していましたね」と言われて笑ってしまった。そんなことはないはずだが、俺が印象に残っているということならありがたい。

出町座に着いて、チケットを買い、東洋くんと喋りながら煙草を吸っていたらギリギリになってしまい、申し訳ないことをした。映画の冒頭は1秒でも見逃したくないから、急いで階段を駆け上がった。まだ予告編だった。

ところで、なぜ映画の途中で眠る自分は許しているのに、冒頭を見逃すことは絶対にしないと自分に課しているのだろうと、これを書きながらしばらく考えていた。たぶん、映画の冒頭には、映画を決定づけるなにかがあって、それを見逃してしまうともうその映画には入っていけない気がする。常に既に乗り遅れているような感覚。現在映し出されている映画と自分のズレが最後まで埋まらないような、それによって生じる後悔で集中できない…そうなると思う。とはいえたまたまTVをつけて映画がやっていたら、それは観るかもしれない。TVで放送されている映画はどうでもいいのだ。なにも考えずに観ている。映画館で映画を観ることは特別。その体験が初めから欠けているだなんて考えられない。『アニー・ホール』で映画に遅れて来た女性にブチギレるウディ・アレンの気持ちが俺にはわかる。俺ならそういうことは避けたいし、チケットを別で買って先に入っておくけど。

『フリーク・オルランド』を観たことでウルリケ・オッティンガーのベルリン三部作はコンプリートした。どれも面白かったが、今回観た『フリーク・オルランド』が一番観やすかったように思う。それぞれのオルランドが出会う人々すべてがどこか唐突に強烈な印象を与えてくることばかりで飽きないのと、その唐突さのなかに差し挟まれる詩情を発見する喜びに満ちていた。

出町座を出ると大雨だった。途端に現実に引き戻される。晴れていたら、まだ映画気分でいられたと思う。東洋くんと別れて古本屋をはしごして帰宅。


持ち手が破れているがなんとか引っ掛けることができた。

写真は一ヶ月でボロボロになるまで使い込んだ(本を入れ過ぎた)から部屋に飾っているウルリケ・オッティンガー『アル中女の肖像』のイラストが描かれたバッグ。

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